沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

私と仏教

私は仏教が結構好きだ。世界の観方とかが自分の感性に合っているように思う。

 

ブログの種として、現時点での私なりの仏教の観方を記しておくのも面白いかもしれない。


 

前提

私がここで言っている仏教というのは飲茶著「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」や魚川祐司著「仏教思想のゼロポイント」を主な基盤としているものだ。

あくまで解説書を見て書いているものであり、自分の解釈が間違っている可能性も多分にある。これが仏教ですなどとは口が裂けても言えないが、現時点での自分の理解度がこの程度ですくらいの空気感で書いてみる。

 

また、私が多少なりとも知っているのは釈迦が説いたとされる原始仏教のさわりと、親鸞浄土真宗)や道元曹洞宗)の仏教をほんの少しだけ。

現在の上座部の教えがどうかとか、大乗にしても各宗派のことなどさっぱり知らない。その辺も一応断りを入れておく。

 

さて、まず最初に書いておきたいのは、私は別に仏教徒ではないということだ。

もちろん身内が亡くなったらお坊さん呼んでお経を唱えてもらうことになるだろうが、それはそういうシステムだからであり、仏教に帰依しているとかそんなことは全くない。まずうちがどの宗派に属しているかも知らないし。

 

また仏教を知りたいと思っているけど、仏教学者みたいに各宗派の比較だとか歴史を研究する気もない。

出家して修行する気もさらさらない。

私にとって仏教はあくまで娑婆世界で生きやすくなるための知恵の一つだ。

 

仏教との出会い

私が仏教を仏教として認識したのは大学時代。史上最強の哲学入門に出会った時だった。

それまでの自分は仏教や僧侶というのはフィクション上の知識しかなかった。せいぜい現実の仏教のイメージと言えば葬式の時に意味不明な言葉を延々と語る人みたいなものだった。

ただ、マンガで最遊記の三蔵は好きだったので、フィクション上では何となくかっこいいイメージを抱いていてた。殺仏殺祖や無一物の言葉も覚えたのは最遊記からだったな。

 

さて、大学時代に史上最強の哲学入門を読んだときに、私はひどく衝撃を受け、視界がパーッと開いたような気持になった。

当時、私はアイデンティティ難民みたいな感じだった。何物にもなれないとかネットの一部界隈でよく言われているあれである。

 

教師という存在がトラウマみたいになっていて、教師に怒られたくないからぼちぼちと勉強してきたけど、高校の後半くらいから教師が怖くなくなってしまったからか、以前ほど勉強することもなく、かといって何かやりたいことがあるわけでも、特段何かできるわけでもなく、あまりに自分が俗物でつまらない存在だと感じていた。

 

そんな時に、史上最強の哲学入門に書かれていた仏教の世界観を知り、「何者もなにも、そもそも自分なんて認識できないよ」ということが私に衝撃を与えた(これ自体は正確に言えば仏教以前のウパニシャッド哲学のものであるが)。

私とは「認識するもの」である。「認識するもの」は認識できない。だから私は認識できない。

だから、私は生まれないし死にもしない。男でもないし女でもない。陰キャでもなければ陽キャでもない。コンプレックスもなければステータスもない。本質的に私はない(有るのでもないし、無いのでもない)。

あらゆるものは空であり実体はない。

 

「ああ、そうか。私なんていないのだ」。

私という存在に苦しんでいた自分にとっては、それはまさに光明のように思えた。

その後、その考えに傾倒した結果、大学時代の黒歴史を作り出していくことになるのだが、そこはご愛嬌ということで。

 

現実の問題に対応するための仏教

さてさて、ここで幸せに暮らしました。めでたしめでたしとなればよかったが、当然そんなことはなかった。

 

いくら本質的に私は無いといったって、一時は気持ちが前向くかもしれないが、結局現実的には何も変わらないのだ。

 

相変わらず自分にできることなんて何もないし、何もしていないのに失敗しかしていないような気分だし、かといってそれでいいのだなんて開き直れないし。

 

私は生きてるし、男だし、陰キャだし、コンプレックスまみれの俗物なのだ。

 

そんなわけで、仏教に一筋の安らぎを見ながらも、結局どうにもならない現実に引きずられるようにもやもやを抱え、就職してから忙しさもあり、しばらく仏教からは離れていた。

 

その後、仕事にも慣れてきたころに、プラユキ・ナラテボー、魚川祐司著「悟らなくたっていいじゃないか」を読む機会があり、現実的な問題に対応するための仏教の智慧という側面から改めて仏教に接してみることにした。

プラユキ氏の著書は現実の問題に対応するための仏教の使い方を書いたものが多く、とても参考になっている。

 

書籍を読む

その他、大乗仏教の代表として親鸞とかも少しかじってみたんだけど、私にとっては阿弥陀様の力を疑いなく信じるという態度がどうにも難しいように感じた。
鎌倉時代ならともかく、現代で仏さまを完全に信じることは少なくとも私には不可能に思える。
死んだら体が腐って終わりと考えている人間にとって、今更仏様の加護を信じなさいなんて考えられるわけねーだろってことでして。

 

対して道元は「ただ座れ」と言う。こちらについても多少の書籍は読んだけど、ただ座っていないので正直分かっていない。ただ座ることが難しい。正法眼蔵も読んでみようかと思ったけど、想像していたより滅茶苦茶長そうで、一旦保留にした。

ただ禅宗の考え方はやはり面白い。というか禅僧のエピソードが面白いなと思う。

有名どころでは、一休さんが正月にどくろを担いで練り歩いたとか、壺の中のガチョウの禅語とか、話を聞けばなるほどねーと思うようなものが多い。

なお、なるほどねーと思っているのでは禅問答の意味がないのであまりよい態度ではないが、まあ修行しているわけでもないからいいだろう。

 

他にも僧侶になった人の自伝みたいなものも読んだりした。現代の僧侶が何を思って出家したのかとか、現実の問題に対応する仏教の視点で参考になる。

しかし、結局のところ人様の中での仏教であり、私自身の問題とはやはり別物だ。

面白く、参考にはなっても、私の問題を解決するものでは当然ない。私は私自身の仏教を探し続けるしかないのだろう。

 

今のところ書けるのはこんなところかな。

本当に仏教を知りたいのであれば何はともあれ修行をするのがいいのだろうけど、自分としてはそこまでやる気はやはり無い。今のところはこれでいいのだろうと思っている。

 

デビルマン(実写版)感想

先日のFCイベントでコンさんが一押しのクソ映画としてデビルマン(実写版)を上げていたので、この度有志を募ってデビルマン同時鑑賞会を行った。

参加者は私、コンさん、白夜さん、ルイさん、マーチさん。

どんな風になるのか不安だったが、思ったよりワイワイしながら観ることができてとても楽しい時間だった。

 

さて、私は原作未読ながら、ネットで有名なところとかは部分的に知っているくらいの事前知識だ。
以下の感想は、ほぼ映画から受けた印象のみとなる。

 

結論から言うと、巷で言われているほどにはひどい出来とは思わなかったかな。

確かに冷静になって一人で観てみると、何で?と思ったり、場面が唐突に変わるところはたくさんあるし、アイツ結局どうなったの?ってことも多い。

 

ただまあ、大筋の流れはなんとなく頭の中で補足しながら追うことはできたし、デーモンに成り果て、デーモン化した人間を殺してしまう悲しさ。その後も人間として、デビルマンとして戦っていく覚悟を決める哀愁は感じられた。

この辺の悲しさは初代仮面ライダーを彷彿とさせる。

原作は流石に名作と呼ばれるだけのものであり、そのエッセンスがあるだけでも初見としては面白い部分はあるように思えた。

以下ネタバレあり。

 


 

 主人公の棒演技

 冒頭の語りから何とも活舌の悪さが垣間見える主人公。

 全体を通して、あまり声に張りがなく、気になったのは戦闘シーン。

攻撃する時も「ウアー…、グアー…」、攻撃されても「ウアー…、グオー…」、瀕死になっても「ウアー…、グウー…」

…もっと気合を入れろ!!!

 

 極めつけは養父にデーモンとばれた時の反応な。何だあの「アアアアーーーー…」は。ばれた時の反応にしても違和感あったし、原作ではどうだったのか気になる場面だった。

 

CG表現

結構CGはよくできてたように感じた。いうて専門家でも何でもないからクオリティ云々は全然分からないだけど、シレーヌ戦とかは音声消して観たら、結構見ごたえあったと思う。

それ以外でも、ちゃんとデビルマンに変化した戦闘シーンは演技以外は迫力あったように感じる。戦闘シーンで漫画調の画面が入るのも面白い仕掛けだった。

 

クソみたいな人間ども

デーモンは人間に寄生して増殖するらしく、デーモンの被害が拡大するにつれ、デーモンの疑いがかけられた人は即刻拘束、抵抗したら射殺させられる法案が通る。

疑いだけで人をどうこうできるようになったらお約束。気に入らない人間を密告して拘束させる魔女狩りならぬデーモン狩りが横行する。果ては目についた人間を見境なくデーモン認定し、市民同士が殺しあう世紀末状態にまで発展する。

その際の虐殺描写は、ルワンダで起こったジェノサイドを思い起こさせた。デビルマンでは「デーモンを殺せ」だったが、ルワンダでは「ゴキブリを殺せ」だったかな。条件が重なりさえすれば、現実にだって「デーモンを殺せ」は起こりうるのだろうな。

 

 何かサタンは人間同士で殺しあうのが予想外って言ってたけど、ちゃんと歴史履修した?  人間同士の殺戮とかちょっと調べればいくらでも事例は出てくると思うんだけど…。

 

まあ、後半はそんな描写が結構出てくるもんだから、終盤でミーコが自分たちを殺そうとする人間に「私たちじゃない。悪魔はお前たちだ!」と言い放って反撃した時は、そうだそうだ!、よう言った!と応援してしまった。

その時、瀕死の人間が力を振り絞って銃を撃とうとするけど、きっちりそれを察知して止めを刺したところは詰めの甘さを感じさせず個人的に高評価だった。

 


 

そんなわけで、みんなで見る分にはワイワイできて面白い映画だと思ったよ。

 そうでなくても、何となく補完しながらでもストーリーがありそうに感じるので、あり得ないほどやばいとも感じなかったかも。

 個人的にはデビルシャークの1時間の無よりかは何かを得られそうな気がする映画でした。

「成長」という言葉があまり好きでない話

ただただ、自分の勝手なこだわりを話す記事です。

 

「何が嫌いかより 何が好きかで 自分を語れよ!!!」とルフィが言ってるコマを見るたび、うるせえー!、嫌いなもん主張して何が悪いんだー!と感じてしまうヌマでございます。

 

とりあえず訂正として、これルフィのセリフじゃないらしいですね。ここに書く過程で調べてたら、あのコマはコラ画像らしい。ワンピース読んでないから普通に間違えていたよ…。

 

あと、元ネタの前後の文脈とかもよく分かってないので、全く見当はずれのことを感じている可能性も高いというね。

 

それはそれとして、私があまり好きでない言葉で「成長した」というのがあります。成長以外にも成熟した、進歩したとかもあまり好きじゃないかな。

例えば、人と話すことが苦手だった人が仕事を通じてある程度話せるようになったり、事務仕事でケアレスミスばかりしていたのが、だんだんミスが少なくなった時に、人から成長したねって言われることがあると思う。

 

少し抽象的に言えば、向社会的なスキルを身に着けたと感じられたときに成長したねって言われるんだと思う。

 

それ自体は褒められてるんだし、うれしいんだよ。

 

ただ、なんかさ、言ってる方は絶対にそんなこと思ってないと思うんだけど、成長という言葉に「人間として正しくなったね」って意味合いが含まれているような気分になるのよ。

 

人間としての正しさ(≒社会的な正しさ)っていうのがあって、それに向かっていることを成長するって言葉で表現しているような感じ。

 

そりゃ確かに向社会的な行動をとれるようになるのは、社会の側としてはうれしいことだと思うよ。でもさ、本質的に人間に正解・不正解、良い・悪いがあるわけじゃないじゃん。

雨が降って、川に流れて、海に流れて、雲になって、また雨が降る。こういう自然の移り変わりと同じように人間もその流れの中にあるわけで、それ自体に良い・悪いは無いと私は思ってて。

 

だから、話すことが苦手だった人がある程度話せるようになったとしても、雨が降って川に流れるようなもので、それに対してなんかプラスでもマイナスでもあまり評価の意味合いを持たせたくないなーと個人的に考えている。

だって、人と話せないのがダメかどうかって、結局今の社会情勢があるからそうなのであって、今後何らかの形で社会制度が変わったら話せない方がいいようになるかもしれないじゃん。

 

知らんけど。

 

これは完全に私側の問題というかこだわりというかなので、他の人は全然言ってもらっていいんだけど、自分が後輩へ何かフィードバックするなら、具体的に行動の変化を言おうかと考えている。

話せる時間が増えた、話す内容が増えた、ミスの数が減った、ミスをカバーできるようになったとか。これなら評価的な意味合いを薄めて、単に数値的な変化だけを伝えられるかなー。

 

上の立場から下の立場へフィードバックするという構造上、評価の意味合いを0にすることはできないだろうけど、できるだけ評価の意味合いの少ない言葉を使いたいなー。

 

 

 

8/21 FCイベント なんでもプレゼン会

超久しぶりのFF14記事。

イベントごと以外であまりやっておらず、ぼちぼち書いていきたい。

 

今回のFCイベントでは何でもプレゼン会を実施した。文字通り特にジャンルを限定せずに、自分の好きなことやお薦めしたいものを発表するものだ。
先月にイベント案50個出すという企画(?)をやったときに出たものの一つで、ビブリオバトルみたいなことやると面白そうということでやってみた。

 

発表内容は以下の通り。
1. ニアさん スキューバダイビング
2. マーチさん 水瀬ケンイチ「お金は寝かして増やしなさい」
3. ルナさん 山口つばさ「ブルーピリオド」
4. ヌマ 辻村深月かがみの孤城
5. コンさん 実写版デビルマン
6. サンボさん クラウドファンディング
7. 白夜さん アンジェリーク
8. ルイさん 水上悟志惑星のさみだれ

 

企画を考えた時当初は、「これ発表者が1人2人しかいなかったらどうしようかな…」と思っていたのだが、ふたを開けてみたら飛び入り参加で発表してくれる人も出てきて、全くの杞憂に終わってよかったよ。

 

結局全部終えた時には開始から2時間経っており、ここ最近のFCイベントの中では最もボリュームのあるものとなりとても安心しました。

 

また発表時間も1人当たり3~5分くらいになるかなーって思ってたら、10~15分話してもらえる人もいて、思っていた以上に話してもらえるイメージでした。

 

自分の場合だと、事前にマクロを作って発表したんだけど、それだと考えてたとおり5分程度で終わってしまい、聞き手の反応に無関係で進んでいくので、少し物足りない気分だった。手打ちで打ち込んでたほうが、結構盛り上がってた印象がある。

 

個々人のタイピング速度にもよるが、事前準備した文章を手打ちでやりながら、聞き手の反応を引き出しながらやるのが一番いいのかなーと思ったりした。

 

あと、「何でも」と言ってはいたけど、当初はビブリオバトルって言ってたし、ゲーム内チャットの発表だから本の紹介に限られてくるかなーと思ってたけど、ニアさんはツイッター使って写真を見せてからスキューバダイビングの魅力を発表してて、初っ端からハードルがぐんぐん上がってて面白かった。ダイビング行ってみてーな。

 

マーチさんは飛び入り参加だったけど、普通にスムーズに発表しててすごかったな。内容は投資に関する本の紹介。自分もある程度勉強したほうがいいかなーと思えた。

 

ルナさんは、ブルーピリオドという漫画の紹介。アート系スポ根漫画で秋にはアニメも始まる作品らしい。美術系はあまり履修していないので興味深かった。

 

私が発表したのは、かがみの孤城不登校の子供たちが少し不思議な城に行って、人間人間するお話。

 

コンさんは、実写版デビルマンの紹介。日本一のクソ映画で、これを見ればほとんどの映画はいい評価になるとのこと。こちらは後日、有志で同時視聴会する予定。

 

サンボさんは、クラウドファンディングの魅力紹介。私も何度かクラファンでお金出したことはありましたが、ライブハウスへの支援とかは全く発想になかったので面白かった。

 

白夜さんは、アンジェリークの紹介。コーエーが出している乙女ゲームで、最近スイッチで最新作が出たらしい。調べたら公式サイトの導線がいいなーと思った。ゲームの公式サイトで「初めての方はこちら」って案内が初めに出てるのは好印象だった。

 

ルイさんは、惑星のさみだれという漫画の紹介。バトル漫画みたいで、結構評判がいいらしい。完結済みで10巻というちょうどよい長さみたいなので、漫喫あたりで読んでみようかな。

 

以上、思った以上に面白い企画になった。まだ話し足りないという人もいたので、少し経ったらまた第二弾をやってもいいかもな。

ショートショートをやってみる

ツイッターでたまたま以下の記事を見つけて、面白そうだったので、基礎編だけ見てちょっとショートショート作ってみた。本来はnoteの企画だけど、noteのアカウント持ってないのでこちらで投稿する。

note.com

 

危険の見える海

 度重なる水難事故を受け、海ではAR技術を用いて、事故があった場所にバツ印が出てきて、事故の内容や事故原因が表示されるようになった。これによって危険な場所や危険な行動が可視化され、水難事故は劇的に減っていった。

 その一方、あまりに多くの人がバツ印のある場所を避けることにより、ある程度の危険を伴う挑戦をしなくなる人が多くなるのではないかと懸念する人もいた。また、人間でないシステムに自分の行動が操られるような嫌悪感を持つ人もいた。そういった人たちはあえてAR機能を切って、気にしないように振舞っていた。

 そういったあえて危険な場所に行く人々を愚かな人物としてSNSに投稿して、いいねを稼ぐのが私の密かな趣味だ。

 

今回はゲームからソウルライクなイメージを浮かべて、それを海と組み合わせてソウルシリーズみたいに事故があった場所やメッセージが見えるようになったらどうなるかなと考えて作ってみた。

 

今回の講座では発想法に重点を置いて解説しており、アイデアの生み出し方がとても参考になった。

またとりあえず思いついた組み合わせで、ともかく書いてみる姿勢が、最近読んだライティングの哲学にも通じるところがあったので、ちょうどよいタイミングでちょうどよい動画が見られてよかった。

 

 

家族なるものへの憧憬に気づいた話

朝井リョウ/著 『正欲』の中に、「命の循環」という表現が出てくる。

主に生まれた地域内で結婚をして、子供を生んで、地域を中心にした人間関係を築くことを表現しているんだと思う。

そして、作中の登場人物たちは明に暗に「命の循環」を肯定しており、「正しい命の循環の中を生きている人」の中に入りたいと感じている。

 

私が最初に読んだときは、そういった命の循環への肯定に対して、あまりに古い価値観を内面化しすぎてないか?と思っていた。

命の循環はいいとしても、わざわざそれを自分から「正しい」ものと考えて、そこから外れた自分を正しくない存在として思い悩むのは卑屈なように感じていた。

 

しかし、そういえば自分も、この命の循環が良いものと感じることがあったなーとふと思い出したことがあった。

 

以前、国勢調査の関係で町内会長さんの家を訪ねたことがあった。
その際は、町内会長さんとその奥さん、娘さんと他にも親族の人がいて、みんなで国勢調査の説明を聞いていた。

 

この一家以外は説明に行っても、大体世帯主の人だけで対応されていたので、町内会長さんの一家は印象的だった。

 

家族がみんなで話しながら説明を聞いている時、自分は何というか「ああ、家族だなあ」みたいなことを感じていた。

 例えるなら、サマーウォーズに出てきたヒロインの親族みたいな感じ。規模的にはサマーウォーズより全然小さいが、空気感は似通っていた。

 

この時感じた「ああ、家族だなあ」という感覚が、正欲にあった「正しい命の循環の中を生きている人」という表現にリンクしているような気が今にすると思える。

 

町内会長の家族を思い出して、命が循環していることを良いものとして捉える感覚が私の中にもあったんだなーと今更ながらに気づいたのだった。

 

もちろん、家族的なものがなくたって別にいいだろという意見は当然ある。

別に家族的なものが無くたって悪いわけじゃないし、子供のいない夫婦だっているだろうし、そもそも結婚しない人だっているだろう。

 

結婚してようがなかろうが、子供がいようがいなかろうが、友人がいようがいなかろうが、本質的には等価であって、良いも悪いもない。

 

ただ、現時点での私には命の循環が良いもの・正しいものという感覚が根付いているのだろう。
地縁がまだ残っていた田舎の生まれがそう感じさせるのか、あるいは遺伝子が自己複製のためにそう思わせるのか、理由は定かではないけれどね。

 

『正欲』の夏月は命の循環の中を生きている人を「正しい」と感じて、自分がその循環の中に生きられないことを嘆いて、周囲の「正しい世界」を嫌悪していた。

 

私は今のところ嫌悪するところまではなってないけれど、もしかしたらいずれ夏月のようになるのかもしれんなーとか思ったり。

 

ただ、やはり周りを嫌悪して生きるのはあまり好きではないから、気を付けつつ生きてくしかないかな。

 

何かを良いとか正しいと感じたり、自分を悪いとか間違っていると感じるのは、もうしょうがない。どうしようもない。

自分でどうこうできるものではないから、良いものはそれとして受け取っておくけど、これに執着して苦しみにならないようにはしたいね。

Vivy -Fluorite Eye's Song- 感想

久しぶりに、息を止めてノンストップで観てしまうアニメを見つけた。
Vivy -Fluorite Eye's Song-」だ。

 

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©Vivy Score / アニプレックスWIT STUDIO

 

今年の4月から6月まで放送されていたアニメだが、アマプラで配信していたので一気見していた。

 

Vivyは自立人型AIであるヴィヴィが100年後に起こるAIの暴走という未来を止めるために奔走するSF作品だ。

 

2161年4月11日

突如AIが暴走し、人間への虐殺を開始する。

ある科学者がこの未来を変えるため、AIのマツモトを100年前に送り込み、自立人型AIヴィヴィと接触させる。ヴィヴィは100年後のAIの暴走を阻止するため、マツモトと共にAI史における転換点を修正するシンギュラリティ計画を遂行していくというのがあらすじ。

 

以下、出来るだけネタバレはしていないつもりだが、若干注意。

 

・未来のために奔走するヴィヴィ

当初はシンギュラリティ計画に懐疑的だったヴィヴィだが、計画が進行するに従って、AIの暴走を止める意志が強くなっていくのは見どころの一つ。

 

崩壊するビルを駆け、宇宙ホテルの墜落事件に介入し、襲い来るAI達をなぎ倒し、使命のために歌い続ける。

青い血を流しながら髪を振り乱し、愚直に使命を遂行しようとするヴィヴィがとてもかっこいい。

ヴィヴィ以外にも使命のため生きるAIが描かれる。特にシスターズと呼ばれるシリーズのAIとの交流が主なものだ。

彼女らはいずれも、それぞれの形で自分の使命を果たし切った。その生き様を目にしてきたヴィヴィが最後の決戦に臨むラストが終わったとき、私は大きく息を吐くしかできなかった。

 

これまでの全てを乗せてラストに昇華しきる「うおおおおお!!!」感がたまらない。

 

・漂う人間臭さ

ヴィヴィ個人の魅力として、漂う人間臭さがあると思う。

まず何といっても頑固さだ。

 

「歌で皆を幸せにする」使命を持つヴィヴィ。自身の敵であるテロリストでも、死にそうになったら身を挺して守る。なぜなら幸せにする対象だから。

マツモトが指摘したように、そんなことしたってテロリストが客になんてなるわけがない。しかしヴィヴィにとってはそんなことは関係なく守るべきだから守る。

 

マツモトが結構短絡的な案を出すのもあるけど、基本的に言うことは聞かず、自分が納得できないことはやらないし、自分がやるべきと思ったらやる。

 

それから友人が亡くなれば悲しみを抱くし、それを見過ごしたマツモトに怒りを向ける。AIと聞いて思い浮かべるような無機質な感じがそんなにしない。

これは自立型AIだからというのもあるのだろう。しかし、AIらしい演算とかを言っている中に頑固さや悲しみや怒りが見えると非常に魅力的に映る。

 

・マツモトとの掛け合い

物語自体は結構シリアス路線だが、マツモトとの掛け合いが一服の清涼剤になっている。

時に冗談を言い、時に皮肉を込め、時にヴィヴィをおちょくる。それに反応するヴィヴィも可愛い。

物語が進むにつれてバディとしての絆が芽生えるのも見どころの一つ。

7話でとっさに「ヴィヴィ!」と叫んでしまうマツモトはそれまでの絆が垣間見れるようでよかった。

最終決戦前のマツモトの励ましと、ヴィヴィの冗談の応酬はまさしくバディだった。

 

・絵の綺麗さ

Vivyの魅力として、物語の随所に描かれる顔のアップの画面が挙げられる。

描きこまれ、宝石の如く輝く虹彩。繊細に描写された髪。心の内を映し出したような影や瞳の揺れ。

ここまで描きこまれた画面はアニメではあまり観たことがない。

 

戦闘シーンの作画もすさまじい。

メタルフロート編でコアへ突貫するヴィヴィ達の動きは本当に引き込まれた。ゾディアックフェス編の戦闘シーンも迫力があって手に汗握る。

全体を通して繊細さと力強さが同居したような作品だった。

 

久しぶりに息をするのを忘れるようなアニメを観れた。今のところアマプラで全話観れるので、観れる環境の人にはぜひ見てほしい作品だ。