とある哲学カフェでの話。反出生主義について話している時だ。
どんな流れでそういった話になったのか明確に覚えてはいないが、ある人が「自分のクローンが欲しい」と言っていたことは覚えている。
曰く「自分が死んでも、クローンが生きていてくれれば永遠の命を感じられるから」と。
自然界(例えばベニクラゲ)で遺伝的に同一であることを永遠の命と表現しているのはテレビで見聞きしたことがあったが、人間の話でそういう表現をするのは初めて聞いたので印象的だった。同時に強く違和感を覚えていた。
こんな想像をしてみる。
未来の世界。一瞬にして自分のコピー人間が作れる機械が出来上がった。もはや「遺伝的に同一である」ばかりでなく「その瞬間の分子構造」「記憶」までもを同一にした個体を作り出せるような機械だ。それを使って自分のコピー人間を作った人がいた。
さて、ちょっとこのオリジナルの方の人間に毒を盛ってみよう。少し口にしただけで筆舌に尽くしがたい痛みを与えつつ時間をかけて殺すような毒だ。
毒を盛られて今まさに苦しみの中にいるオリジナルは、「コピー人間が生きていれば永遠の命があるから大丈夫」などと考えられるだろうか。おそらく難しいだろう。
そこで苦しみを感じている人はその人だけだ。遺伝的に同一であろうが、記憶が同じであろうが、今まさに苦しんでいるのは自分だけだ。この「苦しみ」を持たないコピーが「自分」であるから安心!などとどうして思えようか。
と、自分では考えたのだが、結局「いやいや、自分はその状態でもコピーがいれば安心できるよ」と正面切ってい言われてしまったら何とも言えなくなってしまうな。
とはいえ、やはりこの私の世界を見ているのはこの私だけだと思うし、たとえ遺伝子も分子構造も記憶も同じコピーができたとしても、それを不老不死とか永遠の命とは思えないだろうと予測する。実際どう思うかは分からないけどね。