沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

読書感想文 「正欲」 ネタバレあり

「あなたは人間として正しい感情を持てていますか。」そう問いかけられた気がした。

 

例えばの話。

隣近所の人から「私、バラバラ死体に欲情しちゃうんだよね」と言われたら、あなたは心穏やかにそうなんだーと言えるだろうか。

気持ち悪いと思うかもしれないし、出来れば近寄りたくないと思うかもしれない。ある程度近しい人なら病院行ったほうがいいんじゃないと言うかもしれない。

ある人が言う。これからは多様性の時代だと。

果たして、バラバラ死体に欲情するということを、多様性の名のもとに表立って言える日は来るのだろうか。

 

正欲を読み終えた後、そんなことを考えたのだった。

 

 『正欲』はセクシャリティに関してマイノリティと呼ばれる領域の、さらにマイノリティ側にいる人間の苦悩について描いている。

本書ではマイノリティの中に、「(社会的に)許される」マイノリティと「許されない」マイノリティがいることを描いている。いわゆるLGBTQは許されるマイノリティ

つまりは、「私はレズビアンです」「私はゲイです」「私は…」と言ったとしても、世間から「そうなんだ。大変だったでしょ」等と応援されうるマイノリティだ。

本書で主軸になっているのが許されないマイノリティ、つまりそれを明かしてしまえば世間から「なんよそれ。意味わからん。まじウケる。でもキチガイは迷惑じゃなあ。」と言われうる性質を持つマイノリティだ。

登場人物では夏月や佳道、大也が後者にあたる。彼らは「水に欲情する」性癖として描かれている。それも水に濡れた人間とかではなく水そのものに欲情する。

もっと卑俗な言い方をすれば、水が飛び散る様や水風船が破裂する映像、水がコップに移る画面を見てオナニーしてきた人間達だ。

 

 正直、初めて水に欲情することが明かされたときは、当人たちが思うほど後ろめたさ感じることかなー?と疑問に感じた。

確かに水自体に欲情するというのは、キモイくらいは言われる可能性はあるかもしれないが、もっとドン引きされる性欲はいくらでもある。

作中でも言及があるけど小児性愛とか死体性愛なんかはその最たるものだろう。そこまでいかなくても、自動車性愛だったり、郵便ポストや道路と性交して逮捕されたりする事例もある中、水に欲情するというのはそこまで嫌悪感なく受け止められるんじゃないかと思った。

でもまあ、確かに水に欲情するという話で、友人と下ネタで盛り上がるというのは難しいかもしれないな。そう考えれば孤独感という点では小児性愛者とかと変わらないのかもしれない。

また、作中では水性癖を拗らせた挙句、よりによって警察施設に侵入して蛇口を盗んで水を出しまくるという犯罪を犯した人間がニュースになっていて、そういうのも重なって、自分の性癖を悪いものとして捉えることに頑なになったと思われる。

 

・多様性とか気軽にいってんじゃねえ!

本作で通底しているのが、「多様性とか気軽に言ってんじゃねえ!」精神。

それが凝縮されているのが物語終盤に起こった、大也と八重子の言霊カードバトルだろう。

 

「どんな人間だって自由に生きられる世界を! ただしマジでヤバイ奴は除く」

「差別はだめ! でも小児性愛者や凶悪犯は隔離されてほしいし倫理的にアウトな言動をした人も社会的に消えるべき」

多様性を礼賛する人間の本音はこんなところだと大也は言う。

そこに水に欲情するようなマジでヤバイ奴の居場所なんてない。

 

実際「多様性」ってかなり恣意的に都合よく使う人もいて、多様性最高!とか多様性は絶対に必要!とか言ってる人が、無理解な発言や行動をした人に大して集団攻撃して仕事をクビにさせたり、社会から排除しようとしている人もいる。そういうのを見ると「自分が想像できる”多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」という気分になってくる。

 

実際、多様性ってそんな手放しで喜べるほどいいもんじゃなくて、きちんと浸透させるにはかなりのコストが必要になるものとは私は思う。

多様性が本当に完全に浸透した世界を想像してみる。自身の周りそこら中に「想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほどんの嫌悪感を抱き距離をおきたいと感じるもの」がうじゃうじゃしていて、そいつらを気に入らないからって排除することはできない。

傷物語忍野メメが言ったような、誰の望みも完全には叶えられない、皆が不幸になる世界、みんなが少しずつ不幸を背負う世界。それが多様性が浸透した世界だろう。

 

そういう自分の気に入らない人間を包含する度胸も度量もないくせに、多様性とか言ってんじゃねえって問題意識自体は分かる。

 

ただ多様性って言うことで繋がりを持てる人間も多分いるだろうから(許されるマイノリティなら特に)、多様性自体を恨んでもしょうがないだろうって気分になる。

 

大也は分かってほしいなんて思ってないって言うけど、結局この後仲間と繋がろうとしているし、どうにかして生き延びるには繋がりが必要なのは他の登場人物にも共通している所だろう。

結局のところ必要としているものは多様性を礼賛している人間と同じ「繋がり」なんだから、繋がりを持とうと言ってくる人をそんなに嫌わんでもいいのになーとは思ったりした。

 

あと、この記事書くのに色々ネットサーフィンしてたら、こんな記事が出てきた。

x51.org

イギリスの自動車性愛の男性についての記事で、性癖に関するウェブサイトを運営して同好の士を見つけてきたらしい。

どこまで信ぴょう性あるかは疑問だが、事実としたらかなり理想的なあり方なんじゃないかと思ったりした。佳道達もこんな感じになれればよかったんだけどなー。

 

佳道たちは不運が重なり、ハッピーエンドを迎えることはできなかった。

 

あんまりメタなことは言いたくないんだけど、作者に文句言いたいこととして、何でこの結末にした?とは言いたくなった。

「佳道たちはその後性癖を分かち合えるコミュニティを作って、みんなで幸せに暮らしました。めでたしめでたし。」で終わらせることも可能だったはずだ。もう少しでそんな未来もあったはずだった。

なのに、わざわざ終盤であんな不運の大盤振る舞いして逮捕エンドなんかにしたことで、数日ブルーな気持ちで過ごすことになった。

なんだろう、こんな状況ですけど「いなくならないから」って言い合える絆はすごいよねとでも言いたかったのだろうか。そんなもん、普通に幸せそうにしているところで言わせなさいな。

 

こんなところかな。

 

 本当は大也に説教した八重子って「ヒトクイマジカル」のみいこさんを彷彿とさせた!とか、伊藤計劃のハーモニーとかと通じるものがあるんじゃないか!とか色々ぐるぐるしてたんだけど、あまりにまとまらなさ過ぎて諦めた。読んでいるうちに、色々な作品を彷彿とさせる作品だったことは確かだ。