「王道で行こうぜ、王道で。そんなところで奇ィ
衒 ってどうするんだよ。普通に終わらそう、普通でいいんだよ。何事も普通が一番だ。てめえみてえな不幸な奴と玖渚ちんみてえなかわいそうな奴とのおしまい・・・・なんだぜ――」「―――ハッピーエンド以外は認めねえつーの」
上記は戯言シリーズの《人類最強》 哀川潤のセリフだ。
もうずいぶん前の作品になるが、上記の言葉が自分のハピエン好きな理由の代弁みたいに思ってる。
私はハッピーエンドが好きだ。何をもってハッピーエンドとするかは各々一家言あるように思うが、私の場合は最後の一文に「めでたしめでたし」ってつけて違和感なければハッピーエンドと感じる人間だ。ただし主人公が死ぬのは無条件でNG。
特にそれまで散々苦労をしてきたような描写があると、最後くらいは報われてほしいなーと思ってしまうのだ。
なんで、この前感想文書いた正欲みたいなのはとても心に来るものがあるのだ。
報われないのを見るとブルーな気分になるんだよ。
終わりよければすべてよし。
ハッピーエンドになるなら、強大な力を持ったキャラクターが無理やりハッピーエンドにするような強引な展開でも許せる。むしろ、バッドエンドが避けられるなら、積極的にそういうキャラクターを出すほうがいいぐらいまで考えてる。要するに安心したいのだ。
このキャラクターが登場したらもう安心。紆余曲折はあれど全てが解決され、全てが収まるべきところに収まる。そんなキャラクターが私は好きだ。前述の戯言シリーズにおける哀川潤もそうだし、時代劇で言えば水戸黄門や大岡越前なんかもそうだろう(こっちはあまり観たことないけど)。
とはいえ、そんな完全に安心できるキャラクターがずっといたのでは、物語としては面白みに欠ける気もする。哀川潤だって常に最強だったわけじゃなくて、終盤ではピンチになってたし。バランスの問題と言ったところか。
そういえば「天気の子」が流行ったとき、ラストがハッピーかどうかといった話が出ていた気がする。主要人物が健在で幸福そうだから、私は十分ハッピーエンドだと思った。
といってもそれは、そこで終わるフィクションだからハッピーと言える。
現実は幸福が不幸の始まりになったり、不幸が幸福の種になったり、まさしく塞翁が馬、あざなえる縄の如しであって、どれが幸福でどれが不幸なのかなんてほとほと分からんものです。
「終わりがハッピーならオッケー」というなら、自分が死ぬ時が終わりと言えるかもしれないけれど、じゃあ、死ぬときにハッピーでいられるのかと言えば、そんな想像はなかなか出来ないわけで。
かの一休宗純とて臨終の言葉は「死にとうない」だったという。まあ嘘か真か分からないが、そんな逸話もある中で、自分が死ぬときにハッピーでいられるとは思えんなー。
…筆が滑りに滑って、何が言いたかったのか全然分からなくなった…。自分は何を言っているんだ?????
まあ、ともかく私はハッピーエンドが好きだけど、人生はハッピーかバッドかは判別つかないよねってことで終わっておこう。