沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

私と仏教

私は仏教が結構好きだ。世界の観方とかが自分の感性に合っているように思う。

 

ブログの種として、現時点での私なりの仏教の観方を記しておくのも面白いかもしれない。


 

前提

私がここで言っている仏教というのは飲茶著「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」や魚川祐司著「仏教思想のゼロポイント」を主な基盤としているものだ。

あくまで解説書を見て書いているものであり、自分の解釈が間違っている可能性も多分にある。これが仏教ですなどとは口が裂けても言えないが、現時点での自分の理解度がこの程度ですくらいの空気感で書いてみる。

 

また、私が多少なりとも知っているのは釈迦が説いたとされる原始仏教のさわりと、親鸞浄土真宗)や道元曹洞宗)の仏教をほんの少しだけ。

現在の上座部の教えがどうかとか、大乗にしても各宗派のことなどさっぱり知らない。その辺も一応断りを入れておく。

 

さて、まず最初に書いておきたいのは、私は別に仏教徒ではないということだ。

もちろん身内が亡くなったらお坊さん呼んでお経を唱えてもらうことになるだろうが、それはそういうシステムだからであり、仏教に帰依しているとかそんなことは全くない。まずうちがどの宗派に属しているかも知らないし。

 

また仏教を知りたいと思っているけど、仏教学者みたいに各宗派の比較だとか歴史を研究する気もない。

出家して修行する気もさらさらない。

私にとって仏教はあくまで娑婆世界で生きやすくなるための知恵の一つだ。

 

仏教との出会い

私が仏教を仏教として認識したのは大学時代。史上最強の哲学入門に出会った時だった。

それまでの自分は仏教や僧侶というのはフィクション上の知識しかなかった。せいぜい現実の仏教のイメージと言えば葬式の時に意味不明な言葉を延々と語る人みたいなものだった。

ただ、マンガで最遊記の三蔵は好きだったので、フィクション上では何となくかっこいいイメージを抱いていてた。殺仏殺祖や無一物の言葉も覚えたのは最遊記からだったな。

 

さて、大学時代に史上最強の哲学入門を読んだときに、私はひどく衝撃を受け、視界がパーッと開いたような気持になった。

当時、私はアイデンティティ難民みたいな感じだった。何物にもなれないとかネットの一部界隈でよく言われているあれである。

 

教師という存在がトラウマみたいになっていて、教師に怒られたくないからぼちぼちと勉強してきたけど、高校の後半くらいから教師が怖くなくなってしまったからか、以前ほど勉強することもなく、かといって何かやりたいことがあるわけでも、特段何かできるわけでもなく、あまりに自分が俗物でつまらない存在だと感じていた。

 

そんな時に、史上最強の哲学入門に書かれていた仏教の世界観を知り、「何者もなにも、そもそも自分なんて認識できないよ」ということが私に衝撃を与えた(これ自体は正確に言えば仏教以前のウパニシャッド哲学のものであるが)。

私とは「認識するもの」である。「認識するもの」は認識できない。だから私は認識できない。

だから、私は生まれないし死にもしない。男でもないし女でもない。陰キャでもなければ陽キャでもない。コンプレックスもなければステータスもない。本質的に私はない(有るのでもないし、無いのでもない)。

あらゆるものは空であり実体はない。

 

「ああ、そうか。私なんていないのだ」。

私という存在に苦しんでいた自分にとっては、それはまさに光明のように思えた。

その後、その考えに傾倒した結果、大学時代の黒歴史を作り出していくことになるのだが、そこはご愛嬌ということで。

 

現実の問題に対応するための仏教

さてさて、ここで幸せに暮らしました。めでたしめでたしとなればよかったが、当然そんなことはなかった。

 

いくら本質的に私は無いといったって、一時は気持ちが前向くかもしれないが、結局現実的には何も変わらないのだ。

 

相変わらず自分にできることなんて何もないし、何もしていないのに失敗しかしていないような気分だし、かといってそれでいいのだなんて開き直れないし。

 

私は生きてるし、男だし、陰キャだし、コンプレックスまみれの俗物なのだ。

 

そんなわけで、仏教に一筋の安らぎを見ながらも、結局どうにもならない現実に引きずられるようにもやもやを抱え、就職してから忙しさもあり、しばらく仏教からは離れていた。

 

その後、仕事にも慣れてきたころに、プラユキ・ナラテボー、魚川祐司著「悟らなくたっていいじゃないか」を読む機会があり、現実的な問題に対応するための仏教の智慧という側面から改めて仏教に接してみることにした。

プラユキ氏の著書は現実の問題に対応するための仏教の使い方を書いたものが多く、とても参考になっている。

 

書籍を読む

その他、大乗仏教の代表として親鸞とかも少しかじってみたんだけど、私にとっては阿弥陀様の力を疑いなく信じるという態度がどうにも難しいように感じた。
鎌倉時代ならともかく、現代で仏さまを完全に信じることは少なくとも私には不可能に思える。
死んだら体が腐って終わりと考えている人間にとって、今更仏様の加護を信じなさいなんて考えられるわけねーだろってことでして。

 

対して道元は「ただ座れ」と言う。こちらについても多少の書籍は読んだけど、ただ座っていないので正直分かっていない。ただ座ることが難しい。正法眼蔵も読んでみようかと思ったけど、想像していたより滅茶苦茶長そうで、一旦保留にした。

ただ禅宗の考え方はやはり面白い。というか禅僧のエピソードが面白いなと思う。

有名どころでは、一休さんが正月にどくろを担いで練り歩いたとか、壺の中のガチョウの禅語とか、話を聞けばなるほどねーと思うようなものが多い。

なお、なるほどねーと思っているのでは禅問答の意味がないのであまりよい態度ではないが、まあ修行しているわけでもないからいいだろう。

 

他にも僧侶になった人の自伝みたいなものも読んだりした。現代の僧侶が何を思って出家したのかとか、現実の問題に対応する仏教の視点で参考になる。

しかし、結局のところ人様の中での仏教であり、私自身の問題とはやはり別物だ。

面白く、参考にはなっても、私の問題を解決するものでは当然ない。私は私自身の仏教を探し続けるしかないのだろう。

 

今のところ書けるのはこんなところかな。

本当に仏教を知りたいのであれば何はともあれ修行をするのがいいのだろうけど、自分としてはそこまでやる気はやはり無い。今のところはこれでいいのだろうと思っている。