沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

座禅会参加してきたレポ

仏教徒ちゃんさんが主宰するこちらの座禅会へ参加してきた。

 

 

当日の内容や考えたことを書いてみたい。

メモを取ったわけでもなく記憶だよりで書いてるので、多少記憶違いがあるかも。

 

参加のきっかけはツイッターリツイートを見たことだった。

仏教に興味があるのはこのブログでも書いたとおりだが、ツイッターでも数人仏教関係の方をフォローしている。その中で仏教のアレさんという方がリツイートしていたのだ。

比較的近場だし、これまで本を読んできただけできちんとした座禅をしたことがなかったので、この際ちゃんとやってみたいと思ったので思い切って参加してみた。

 

当日は車を飛ばして名古屋市は新栄の曹流寺へ向かった。

地図で見てる分にはあまり意識していなかったが、行ってみたら名古屋の大都会のど真ん中にふっと現れる小さなお寺で、第一印象は「地価高そうな場所だなー」だった。

聞いてみると30何代も続いているかなり歴史のあるお寺さんだった。

 

仏教徒ちゃんはこのお寺の住職さんであるが、住職という肩書で想像していたよりは随分お若い方で、とても気さくな和尚さんであった。自分よりちょっと上くらいの年齢じゃなかろうか。

ネットでのメインの活動場所はTikTokみたいだが、動画で見るよりも親しみやすい方だった。

 

今回は午前・午後の部があり、私は午後に用事があったので、午前の部のみに参加した。午前の部は初心者向けの内容で、座禅をやる意義とか座禅のやり方などの話と20分×2回の座禅があり、計3時間の内容だった。

午後の部では40分の座禅を何回かやって6時まで座禅を行うという内容になるようだ。

 

参加者は私を入れて7人、半数は女性もいて思ったよりも多い印象だった。なかには富山から来て参加されている人もいて、初めに聞いたときは耳を疑ったな。

 

座禅会を開いた趣旨として、仏教徒ちゃん曰く、自分があまり座禅修行というものに意味を見いだせずに僧侶やってきてたけど、最近仏教のアレさんと交流していてきちんと座禅修行をやってみたくなってやっているという。

一人だとあまりやる気にならないので、複数人でやれたらいいなーと思って今年の夏頃から座禅会をしてきたらしい。

 

結構意外だったのが、座禅メインと思っていた曹洞宗でも、修行道場出たらちゃんと座禅をやっている人はあんまりいないんじゃないかなーと言っていたところ。

まあ、言われてみれば日本の僧侶が現代でやることは先祖供養とか葬式がメインなんだから、それで飯食っていられるのであれば、わざわざ何もしないための座禅なんてやるインセンティブがないわなーと納得した。

仏教徒ちゃんも以前は、座禅やる時間があるならTinderで女性と仲良くしたいと思っていたという話が印象的だった。

 

座禅に移る前にやり方の説明があってありがたかった。床にそのまま座るものとばかり思っていたが、座蒲(ザフ)というクッションを下に敷いて、両膝とお尻の3店で安定させるように座る。これだとお尻も痛くないので結構長く座っていられる。

この座っていられる自分なりの良い体勢を見つけるのが大事らしく、これに数年かかることもあるとか。

 

説明もそこそこに、1回目の座禅を行った。座禅のやり方にもいろいろあるみたいだが、今回は各々壁に向かって、目を開けて行うやり方だった。

 

座禅を初めてすぐ、「そういえば、あの本にはこんなこと書いてあったなー」とか「あの本に書いてあった瞑想の意義って何だったっけ」とかふつふつと泡が浮かぶように出てきていた。
面白いのは「同じことを何回も繰り返している」ことだ。

 

ある思考が浮かんできて、「ああ、あのこと思ってたな」とハッとする。次に違う思考が浮かんできてまたハッとして戻る。この思考のバリエーションがあまりないのだ。

大抵3つか4つくらいのことをランダムにぐるぐるぐるぐる考えていて、次に行かない。頭の中で悩みを考えているとぐるぐる回るだけで解決に行かないと聞いていたが、まさにその状態だった。

 

そのうち眠気が出てくると白昼夢を見るようになる。

半分寝ていて軽く夢を見ているような状態だ。細かなところまでは覚えていないが、なんかSFチックな光景が浮かんだり、変な光景が浮かんでいたような気がする。

こちらもそれぞれの夢の初めだけをぐるぐる見るような感じで、小説であれば数種類の小説の第1章冒頭のみをぐるぐる見させられている気分だった。2章以降に行かないねん。

 

20分が終わると一旦休憩をはさんで2回目の座禅を行う。

2回目は何となく眠気が少なくなった気がする。1回目で半分寝ていて多少眠気が飛んだのかもしれない。
最初の5分程度は結構上手く座禅できていたように思う。壁をただ見ていてそれほど思考があっちこっち飛んで行ったりしなかったと思う。他の参加者の方も、1回目より2回目の方が集中できたという声が多かった。

 

しかし、そのうちまた思考や眠気が出てきて白昼夢の中をふらふらしていながら2回目の座禅も終わった。

 

思考せずにただいるという状態になるのはやはり難しい。

瞑想をこれまでずっとやってきていた経験者の人でも、座禅中に元カレへの不満とかが噴出してくるという話が出ていた。

ただ、別に思考しない方が偉いというわけでもない。

むしろ無思考の状態になれないことをダメなこととか考えて、自分を責めるような態度は座禅に最も持ち込んではいけないものだ。思考が出てきたらただ見て、見たらふっと戻ればいいということを仏教徒ちゃんも言っていた。

 

最後に座禅をする意義についての話があった。正直あまり理解できているとは思っていないが、自分なりの解釈を書いてみる。

 

どうしてこんな何もしないで座るだけ(無為)の修行があるのか。資格勉強とかTinderで恋人探すとかもっと意味のあること(有為)をした方がいいんじゃないか。

この問いに対して、仏教徒ちゃんは「実存の転換」を実感するためという説明をしていた。

 

この世は一切皆苦。生きている限りもっともっとと求め続け、不満足の苦しみを抱え続けることになる。

この不満足の苦しみから離れて、ただここにあるだけで満足という状態を作り出すのが禅の悟りと言われるもので、これを実存の転換と呼んでいた。

この「ただここにあるだけで満足」の状態に至るための修行が座禅なんだと。

多分こんな感じのことを言っていたように思う。解釈違いがあれば申し訳ない。

 

そのうえで、一つ疑問に思ったことがあった。

インドにおいては輪廻思想が定着していたから、この求めて求めて止まない苦しみが永遠に繰り返されるという状態が忌避されたわけだが、現代日本はそうではないと思う。多分多くの人が死んだらそこで終わりという思想を持っているのではないか。

人生が今回の一度きりで終わるなら、たとえ不満足があったとしても、好きなことをして、お金持ちになって、好きな人とセックスして、みんなから尊敬されるような幸福を味わうことは別に苦しみ三昧とも思えないだろう。

 

人生山あり谷あり。人生の最後に幸不幸の収支がプラスになっていればいいやと、そんな風に生きている人が大多数ではないか?

 

そういう人に「座禅すれば、ただここにあるだけで満足だよ」と言ったところで、「いやそんなことより年収増やすために資格勉強したほうがいいよ」とか言われそうな気がする。

そうだとしたら、そんな人たちに禅は何を語れるのだろうか?

 

次回開催されたらまた参加したいと思うから、その時はこの疑問を伝えてみようかな。