沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

接心体験記

1/3~1/5にTiktokで活躍する仏教徒ちゃんこと堀部遊民さんが主宰する接心が開催された。


遊民さんの坐禅会には過去2回参加しており、いずれも2,3時間程度の座禅だった。今回はまとまった期間の本格的な坐禅会ということなので、いっちょ参加してみるかと興味10割くらいで参加してみた。

接心とは

まとまった期間座禅修行に打ち込むことを接心と呼ぶ。流れとしては1炷(40分程度)座禅を行い、10分経行(きんひん 歩く瞑想)し、10分休憩するを1サイクルとして行った。

また12時と18時にはオートミールのお粥が振る舞われ、1時間の休憩があった。私の場合は仕事の関係で4日の夕方までの参加で計14炷行ったことになる。

今回は遊民さん以外にも、仏教のアレというWebサイトとYoutubeチャンネルを運営されている道宣さんと遊心さんも共同主催として参加されていた。

buddhismare.net

www.youtube.com

どちらもサラッと見ても面白いコンテツでおすすめ。

今回の接心は計3日間だったが、自分は仕事の関係で1/4の18時で終了した。

1日目

初日は17時から始まり21時まで4炷分行う。

最初の2サイクルくらいは結構余裕があった。座禅を始めると主にこれまで読んだ仏教本の内容が頭の中でぐるぐるすることが多かった。

3サイクル目から多少痛みが出始めて、こっくりこっくりすることが多くなってくる。ただ座っているだけだとどうしても眠くなってくるのよ。たびたび船を漕ぎながら4サイクルやって初日は終了。

最後は脚が結構痛くなっていた。私は半跏趺坐と言って、片方の腿にもう片方の脚を乗せる座り方をしているのだが、きっちり座ると膝をがっと曲げたまま固定するので、膝を中心に痛みが出てくる。今回の接心では椅子に座って座禅してもよかったのだが、なんか意地で半跏趺坐のままやっていた。

座禅終了後はとっていたホテルへ泊まる。本当はホテルへ直行してさっさと寝るのがいいのだろうが、腹が減ったので近くの馬肉屋へ行って食事をとった。馬肉専門店って1回行ってみたかったのよ。都会の中にあるお寺の利点を感じた瞬間だった。誘惑が多いともいう。

2日目

2日目は朝7時から始まった。特に話があるでもなくスッと初日の続きから始まり、少し困惑していたがこういうものなんだなーと思って、そのまま座禅を行う。

1日目と同じく2サイクル目くらいまでは余裕がある。ホテルでしっかり寝たので、1日目よりすっきりした意識で行うことができたように思う。

12時まで5サイクル行い、既に足が痛くなってきていた。オートミールおかゆをいただき、昼休憩に入る。
少し外を散歩して足の痛みを紛らわしていたんだけど、次の座禅が始まると全然痛い。
そして午後の座禅が始まってからがかなり大変だった。

午後の座禅から坐禅中の感覚が1日目と比べてかなり異なってきていた。1日目は初めは本の内容リピート、少し経つとこっくりこっくりだったけど、この辺りから居眠りというより白昼夢が現れては消えていくような感覚になってきていた。

恐らく脳がレム睡眠しているのだろうが、ふと視界が真っ白になって白昼夢を見て、そのうちふっと目の前の壁に意識が戻るような感じ。
白昼夢の内容は意識が戻ったときにはもう忘れてしまっているのがほとんどだが、なんか人が踊っているような絵面がイメージに残っている。

正直、意識が戻っても脚の痛みがつらいし時間が進まないしで、そのうち早く白昼夢に戻りてーと考えていた。座禅の意義的にはあまりよい心構えではないのかもしれない。

ただ、最後の1炷分はこれで最後だと思っていたからかあまり白昼夢を見ずにいた。その分脚の痛みがずっと続くので、最後のあたりは足の痛みを感じながら「早く終われー」とずっと思っていて、終了までの時間がとても長く感じた。

最後の座禅が終わったあと、本当はそのまますっと帰ることになっていたが、ご厚意で道宣さんと遊心さんと話す時間を設けていただいた。

記憶だよりになるがいくつか琴線に触れたところを記録しておく。後から記憶で書いたものかつ自分の頭で編集したものなので、もしかすると間違い・勘違いとかあったらごめんなさい。



死ねば楽になるという考えに対する仏教的回答

  • Q.仏教は精神的な安らぎを求めて実践を行うものと考えているが、「楽になりたいのなら単純に死ねばいいのでは?」という考えにどう答えるか。


  • A.「死んだらそれで終わり」という考えなら、確かに死ぬのが最善という結論になるかもしれない。仏教の世界観ではあくまで輪廻が前提になっているので、仏教的には「輪廻するから次の人生で頑張ってね」というスタンスになる。
    仏教では自殺自体は別に良いものとも悪いものともされていない。ただ生老病死を始めとした四苦八苦をまた永遠に繰り返すから、今修行できるうちに修行して苦を減らしておきませんかというのが仏教の考え。

  • また修行寺では修行で死ぬなら死ねばいいくらいの温度感で修行する。座禅で脚痛くなっても、「死ぬつもりで来てるんだから足もげようが動かなくなろうが何だっていいだろ! 動くな!」って感じで言われることもある。実際のところ死ぬ気で修行して初めて見えてくる景色もあると感じている。

  • 死んだら解決するような問題は仏教では取り扱わない。死んでも解決しない問題を取り扱うのが仏教と言えるかもしれない。



(私の感じたこと)

「死ねば楽になる」という考えに仏教がどう答えるのか興味があって質問したが、禅寺では死ぬなら死んでしまえというスタンスで修行していると聞いて、なんだか腑に落ちた気がした。 結局「死ねば楽になれる」という言葉の真意は「楽になりたい」という欲望=苦の原因なんだから、死んだら楽になるという考えでがそもそも苦を消すことができないのかなーとか考えた。


仏教における「安らぎ」について

  • 仏教の安らぎって常に安定しない中にあるように感じる。例えばとても安定した人間関係があったとして、それがあるうちは確かに安らぎかもしれないけど、それって結局無常だからいつか崩れるよね。崩れたら安らぎを得られないのなら、それって本当に安らぎって言えるの? みたいな。

  • 安定しないっていうのは仏教理論にも言えて、「これこそが仏教の真髄なんだ!」みたいなカチッとしたコレ!って感覚を持ったとしても、常にどこからか「勝義諦(仏教的な最高の真理 悟り)から言えばそんなの間違いだらけなんだよ!」と勝義諦スラッシュ!でバッサリ切られる。実際、経典を見ても、この経典とあの経典ってよく考えると矛盾してるじゃんということがある。

  • 人が言う「悟り」にも色々あって、一方では「日常のちょっとしたことに気づくだけだよ」という人からもう一方では「この世の全ての真理を得ることだ」という人もいて、何でもありじゃないかというくらい色々ある。むしろ「悟り」が何か分からないからこそ追い求めているところがあるのかもしれない。



(私の感じたこと)

この話を伺った時に『悟らなくたって、いいじゃないか』(プラユキ・ナラテボー 魚川祐司)を思い出していた。本書でも「悟り」という概念は多様なものであり、大乗やテーラワーダ等、各仏教で目指しているものが全く同じではないと書かれていた。

実際に僧侶をされている方でも「悟り」という概念は広さを感じられるもののようで面白いなと感じた。自分でも多少仏教の本を読んだりする中で、初期仏教ですらなんか人によって解釈違うんだけどってところがあって、ましてや日本仏教の各宗派とかテーラワーダの教えとかまで手を出すと、それぞれで言ってることが違くて意味が分からなくなる。



接心としては短いだろう2日間の参加だったが、仏教で気になっていたこともしっかり聞けてとても満足でき、ありがたい体験だった。

しかし、修行道場とかだと1週間風呂も入らずに座禅し続けるところもあるらしく、そんなに座ったらどうなるんだろうと興味半分恐ろしさ半分といったところ。

流石にそのレベルは遠慮したいが、機会があればもう少し長い接心をしてもいいかもしれない。