沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

人生折り合い付けて楽しく生きることと仏教

仏教の苦の考えに対して、人生折り合い付けて楽しく生きればいいじゃんという反論があるけど、仏教はその考えの前提である幸福観を否定しているんじゃないかなーという話。

 

仏教には苦(ドゥッカ)という概念がある。

これは終わりのない不満足な状態のことで「もっと欲しいもっと欲しい」と感じることである。およそ私たちの感じている世界は絶対に一定の状態に留まらないので欲望が完全に満たされることはなく、一時的に満たされたように感じてもすぐに新しい刺激を求め続ける。

そして欲望がある限り常に満たされないため苦が付きまとう。よって苦を滅するためには欲望を滅すればいいことになる。

 

このような仏教の苦の話を見聞きするたびに思うことがある。

 

「確かに楽しさや幸せは持続せずにもっともっと欲しくなるっていう一面はあると思うし、それが苦しみの原因というのも1つの見方だと思うよ。でもさ、際限がなくてもぼちぼち楽しいことやって幸せになって、その気持ちが弱くなってもまた新しい楽しいことや幸せなこと見つけていって、ある程度妥協して苦しみもあったけど楽しい人生だったなって最後に思えたらそれでいいんじゃないの? みんなそうやって人生に折り合い付けて生活してるんじゃないの? 苦しみを滅するとか言って悩んで修行とかする前に、自分が楽しいことや幸せになるようなこと見つけようよ」という言葉がずーーーっと響いている。

仮にこの考え方を「人生折り合い派」と名付けてみよう。

 

正直まっとうな意見だと思うのでなかなかこれに反論できない。

 

1つの反論としては「いやいや、仏教では輪廻が前提としてあるから、来世でできるだけ苦しまないように今のうちに修行して苦の原因となる欲望をできるだけ除かないと」というのがあるが、「輪廻があるかどうかなんて分からないじゃん。たとえあるとしても、また折り合いつけながら楽しい人生になるようにできることしてけばいいじゃん?」って言われると、確かにそうなんだよなー…となってしまう。

 

いやいや、このようなまっとうな意見は歴史上何度もあったはず。それでも何千年も続いている宗教なのだから、もう少し反論を考えてみよう。

 

ちょっと思いついたので、幸せゲージという概念を考えみよう。完全に不幸な状態が幸せゲージ0の状態で、ゲージが満たされた状態が完璧に幸福な状態だ。このゲージは時間経過で減少していき、楽しいことをしたり幸せを感じると増加する。

上記のような人生折り合い派の人が想定しているのは、この幸せゲージをある程度維持した状態(60%か70%とか程度は人によるだろうが)で人生を終えるという考えだろう。

 

対して、仏教における試みは、この幸せゲージそのものを破壊する類のものと感じる。

幸せ(欲望)を概念ごと消す。よって幸せゲージはなくなる。ゆえに幸せに達しない状態も消える。そこにあるのはただそれがあるという状態のみだ。

 

釈尊の伝説の一つに、生まれたときに天上天下唯我独尊」と言ったというものがある。「世界において唯だ我独りとして尊し」という意味らしい。

 

ここにただあること。それが尊い

 

何かをしているから尊いのではない。何かを持っているから尊いのではない。何かを足したり引いたりして尊いのではない。誰かや何かと比較して尊いのではない。

 

そういう境地を仏教は目指しているのかもしれない。

 

仏教徒ちゃんさんは以前の座禅会にて座禅の意義を「実存の転換」と表現していた。ただここにあるだけで満足の状態に至るための修行が座禅なのだとおっしゃっていたことが、ここと繋がってくるのかもしれない。

 

仏教徒ちゃんさんがその話をしていた時の記事

 

numamemo.hatenablog.jp

こう考えてみると、仏教は人生折り合い派のそもそもの前提を否定しているように思う。

人生折り合い派の前提とは「幸せゲージがある程度溜まっていれば幸福である」というものだ。別の表現で言えば、人生には幸(プラス)と不幸(マイナス)があって、それがプラスになるように生きられれば幸福という考えだ。

 

仏教では、上記のような幸不幸をプラスに傾けようとすること、つまりは人生折り合い派がある程度幸福とするその状態こそがそもそも苦(永遠に満たされることがない状態)だと考えるのだろう。

 

「人生折り合い付けて、そこそこ楽しく生きていければいいじゃん。もっと楽しいことしようよ!」
「楽しいことなど何もなくとも、ここにこうしてあるだけで楽しいものだよ。そんなに楽しいことに追い立てられなくても大丈夫よ」

 

……いやこんなこと言う奴本当にいたらイラッてするから言わんけども。

実際のところ、人生折り合い派はまっとうなことを言ってると思うし。そうやって皆が折り合いをつけながら幸福を求めてきたから世界が発展しているのは事実だと思うし。それに普通に幸せで人生終えられるならそれはとても良い生き方だと思う。

 

まあ、ちょっと違う視点でものを見てみるというのも面白いことだと思うので、仏教的な見方をしてみるのも興味深いかもしれないというお話です。

 

以下余談
人生折り合い派の前提を否定しているという話をしたが、幸せゲージが溜まっていたら幸福という前提の他に、もう1つ否定しているように思った。

 

人生折り合い派はどうも幸せゲージをある程度自分で操作できるように信じているようだけど(私が勝手にそう想定しているだけだけど)、そもそも幸せなんて自分でどうこうできるものではないように思う。

 

何を幸福と感じるかも周りの環境次第だし、その幸福が得られるかどうかも縁起の中の物事だろう。

普通の生活を送っていたら急に隣国から戦争を仕掛けられることもあれば、普通に話していた隣人とある日いきなり殺し合いになることもある。

親から殺され、または殺し、見知らぬ誰かに殺され、または殺すこともある。因と縁によってはそういう世界に生まれたり、巻き込まれることもある。

 

そんな渦中の人に「人生折り合いをつけて…」などと言う人はわずかな人だけだろうが、こういうことがありうる以上、幸せを自分で操作可能と思いすぎるのはいささか気が引けると個人的に思っている。