沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

読書感想文「マカン・マラン」(シリーズ読破後)

先日マカン・マランシリーズの1巻のみで感想を書いた。その後が気になり、2~4巻も全て読んだので、その感想を書いてみる。

前回はこちら

numamemo.hatenablog.jp

 

最近にしては珍しく、一気に読んだシリーズ物となった。

 

2巻の途中までは、物語の展開自体は多くの場合でそれほど変わらないと感じた。人間関係の不満、不安定な職、劣等感、そういう現代的なあれこれを抱えた人が、シャールのもとを訪れる。シャールはドラァグクイーンとなった自身の経験と、料理を使って相手に合ったアドバイスを送り、それが解決の糸口になっていく。

現代人ならどこかしら共感できる悩み。分かりやすい悪役。シャールと出逢えば必ず前向きになる主人公たち。

初めこそ、1巻と変わらない展開でやっぱりNot for meかなと思っていたが、気づいたらどんどん読み進めて、4巻まで一気に読み終えてしまった。

 

どうしてこんなにスルスル読めてしまったのだろうかと考える。

一つには、物語が進むに連れて、当初からの登場人物の深掘りや、悪役が主人公のストーリーが出てきて、変化のあるストーリーが出てきたことが挙げられる。2巻では1巻から出てきていた柳田の話やシャールの親子関係について描写されたし、3巻ではそれまでの主人公たちとは異彩を放つ、ネットの口コミでとにかく悪口を書くディスり中毒の女性が主人公の話があった。また、それまで出てきた主人公たちがその後のストーリーにも登場し、間接的に深掘りされていったりして、関係が重層的になっていくのが楽しい。ストーリーが一段落した後に主人公のその後が描かれるのが好きな人間なので、間接的にその後の物語が描写されるとぐっと引き込まれる。

 

もう一つは前回の感想文で同じことを書いたが、やはりシャールの人柄が好きなんだよな。梁に頭が付きそうなほど背の高い、優雅にして、どこか恐ろしい、女装の中年男性。この世ならざる異界の魔女。そして進行性の病を抱え、シャールとなる過程で様々なものを失ってきた1人の人間。それがシャール。

彼女が主人公たちに合わせた食事を作り、個々の苦しみに寄り添うときの言葉は、読者である自分たちにも届くところがある。

私はそのうちシャールが観音菩薩に思えてきた。特にシリーズ3巻「気まぐれな夜食カフェ マカン・マランみたび」の第三話「風と火のスープカレー」でより一層観音菩薩と重なって見えた。観音菩薩は人々の苦しみを抜くために、その人に合わせた様々な姿で現れるとされる。「風と火のスープカレー」ではクライマックスでシャールが男装し、御厨清澄(みくりや きよすみ)として主人公の前に現れる場面がある。シャールの必要とあれば男性の姿となり苦しみを抜く姿に、観音菩薩の姿が重なるように感じられた。

それに、インドでは男性の像しかなかった観音菩薩が、中国に渡る過程で女性の像が主流になってきたというのもシャールのイメージにぴったりだった。

シャールが観音菩薩とすると、マカン・マランはさしずめ観音菩薩の活躍を描いた変化譚といったところか。そう考えると当初抱いていたご都合主義とも思える都合の良い展開も読み方の問題だったように思う。マカン・マランの話は仏典に出てくるような例え話というかある種の逸話みたいなイメージで読むのがいいのだろうと感じた。

 

さて、前回の感想文の最後に、「正欲」や「聖なるズー」とのクロスオーバーを考えてみたいと書いていたので、それを再考してみよう。

「正欲」の桐生や佐々木や諸橋が、もしもシャールと出会っていたら…。シャール自身の性や親子関係を交えて、相手に寄り添おうとしてくれるかもしれない。もしかすると物語よりも早く桐生たちが安らげる場所を見つけられたかもしれない。

でもやっぱり結末は変わらないか。シャールと出会うまでもなく、特に桐生や佐々木はある意味前向きになっていた。そういう意味ではあの結末もハッピーとは言えなくともあるべき結末だったのかもしれない。諸橋についてはひたすら可愛そうだけど、シャールと会っていたところで、あの結末には干渉できないだろう。

 

 

「聖なるズー」についてはリアルの話であるので、あまりフィクションの存在を混ぜて考えるのが難しいところはあるけれど、もしズーであることに思い悩んでいる人が来たら、こう言うのかもしれない。

「生きてくのって、寂しいのよ」

「皆、寂しくて、一生懸命。それで、いいじゃない」

 

マカン・マランシリーズ、最終的にはスラスラと自分の身に染み込むような読書経験だった。今ならこれはFor meな本だったんだと思える。作者の別の本にもシャールが出てくるようなので、引き続きそちらを読んでいきたい。