私は挨拶が苦手だ。大人になるにつれて多少は改善されてきたけど、いまだに自分から挨拶がしにくい。道端で同僚と挨拶するような距離まで近づきそうになると、少しペースを落として「普通挨拶しないよな…」って距離を保つようにしている。場合によっては通勤ルートを変えて、出会わないようにすることもある。
私にとって挨拶をするというのは大変ハードルが高いものなのである。
挨拶についてネットを見ると「社会人として挨拶は常識だよ」と見聞きすることがある。
挨拶すると気持ちがいいよ。挨拶しないと印象が悪くなるよ。挨拶から会話が始まるんだよetc…。なるほど確かに素晴らしい効果だ。
私の経験としても、例えば選挙事務をしていて、選挙に初めて来たっぽい子に入り口で挨拶すると、少し安心した様子で中に入ってもらえることが多い。挨拶には「ここにいてもいいよ」というメッセージを込めることもできるように思う。場を開かせる効果とでも言おうか。
そういったポジティブな効果が挨拶にあることは認めるところだ。でも私は天邪鬼だからこうも考えてしまう。
これだけポジティブな効果があるのに、なぜ挨拶ができない(苦手な)私のような人がいるんだろう。そんなにポジティブな効果しかないのなら、誰に言われずともありとあらゆる人が呼吸をするように挨拶しまくっているはずだ。そんな世界ならわざわざ「挨拶は重要だよ」なんてことも言われないはずだ。
私が思うに、挨拶にはコストがかかる。
何かの本で見た気がするが「誰だって人に話しかけるのは少なからずストレス」なんだという。話しかける側には、拒否されたり無視されるリスク、話をしても満足のいかない結果になるリスクなどがかかってくる。だからストレスなんだと。だからこそ最初に話しかけてくれる人は貴重でありがたいものだ。
これ、そのまま挨拶にもあてはまるような気がする。特にあまり親交がない人とかに挨拶するとき。挨拶してそこから会話が始まってしまうなら、挨拶することは自分から話しかけるのと同じくらいリスクをはらんでいる。
挨拶はとてもいいものだが、ノーコストでできるわけじゃない。
そう考えたとき、ちゃんとした挨拶は常識ではなく贈り物みたいなものに感じた。
コストを払って、人にあげる。だから当たり前のものではなく、ありがたいものなんだろう。
また私は仏教が好きだから、挨拶を布施行として捉えてみると、何となく挨拶をしっかりしてみたい気になってくる。
しっかり場を開くための挨拶をして布施することで、相手からいい反応が帰ってくるのも悪くない。たとえ何も反応がなかったとしても布施行だから、そのまま手放せればそれでいい。
私は基本的にケチだから、あんまり人に贈り物をすることがない。気の利いた会話をすることも、冗談を言って楽しませることもできない。それでも、数秒の挨拶をしっかり行って布施するだけなら可能かもしれないと思える。
「挨拶は常識だよ」と言われると挨拶したくねーなーと思うけど、「挨拶が布施になる」と言われるとちょっと頑張って挨拶してみようという気になるから面白いね。
そんなわけで、ほんの少ししっかりした挨拶をあげていこうかと思った次第なのだった。