沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

願い事なしコンプレックス?

願い事とか将来設計とか人生の目標ないのって、自分の中で案外コンプレックスなのかも?って話。

せっかく七夕なのだから何かお願い事でもツイートしようかと思い立ち、ツイッターを開くが、頭に浮かぶのは「平和でありますように」とか「みんなが健康でありますように」とかそんなことばかりしか浮かばなかった。別にこういうお願いは嘘ではない。しかし、ではそれが本当に心の底から浮かび上がる絶対的なお願いかと言われれば、そんな気持ちでもない。あえて言うなら社交辞令を言う時の気持ちに近い。別に嘘をついてるわけじゃないけど、本気で思ってるわけでもないよみたいな。もちろん大切な人が病気で本当に心の底から「その人が」健康になるようにってお願いする人はいると思うんだけど、私の場合は「ふわっと、とりあえず」皆が健康にみたいな感じで、人に言いやすいパブリックなお願い事と言ってもいいかもしれない。

私としては、パブリックなお願い事ってなんか面白くないというか、社会の仮面を被って言ってるような気がしてて、もっと自分の欲求を反映したようなパーソナルなお願い事が思いつけばいいのにと思ったりする。

以前どこかで、お願い事というのはそれが叶うかどうかというのはあまり重要ではなくて、むしろ自分のお願いしたいこと、欲求は何なのかを問うことが重要なんだと聞いたた。自分のやりたいこと、実現したいこと、望んでいること。それらは日々を忙しく過ごすうちに案外忘れていくもので、七夕とか正月とかに改めて自分に問うことが重要なんだと。

そう考えると、私は自分の欲望がうまく見えていないのだろうなと感じる。昔から何がしたいのとか何が好きなのという言葉にはしばしば戸惑う人間だった。大人になるにつれ、とりあえずそれっぽい答えを用意しておくようになったが、な~んか違うんだよなってよく思う。

七夕のお願い事もさんざん悩んだ挙句、世界平和とか皆が健康にとか書いて吊るしていた。もちろん、その時々で神頼みしてもいいようなイベントはいくつかあったけど(受験とか、試験とか)、そういうのは「神頼みするようなもんじゃないしな」とお願い事で書くことはあまりなかったように思う。結局自分でどうにかしていくものは自分でどうにかするしかないし、自分でどうにもできないところをお願いするって考えると「みんなが幸せに」みたいなパブリックなお願い事しか思い浮かばないことがほとんどだった。

 

実際今でも、いわゆる目標とか将来設計とか正直無いんだよな。

就活の質問じゃないけど、「5年後10年後どうなりたい?」って聞かれても「知らん。生きてんじゃないの」と言いたくなる。「どうなりたい」に対して「知らん」だとそもそも回答になってない気もするんだけど、でもこれが俺の偽らざる本音という気がする。未来のことなんぞ知らん。気が向けば向く方に行くだけ。

将来設計とか就活対策で出すだけで、みんなそんなもんなんじゃないの?と自分では思っていたのだが、以前とある集まりで、えらく将来設計が明確な人がいた。「○○歳までにこうなっときたいから、それまでに○○の資格取って、○○歳で仕事辞めたら次はこれやってみたい」みたいな人。なるほど世間にはこんな風に人生設計を立てて、目標に向かって進む人が本当にいるのだなーと、伝説の生物を実際に見るような気持だった。

この人の話を聞いて思い出したのが就活の時にとある企業の人が言っていた言葉「俺は夢を持ってない奴はクズだと思っているから」

今思い返しても「こいつの下で働きたくねーな」というのが第一の感想。だけれど、なぜだか未だにこの言葉だけ覚えている。それだけ強く残っているのは、案外そういうのが大事と心のどこかでは思っているからなのかもしれない。

何ができて、何ができないのか、何ができるようになりたいのか、何をやりたいのか。

その辺がわかっていないのが割とコンプレックスみたいになっているのかもしれないなーと考えた日であった。