沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

読書感想文「老人と海」

「失いながらも、誇りを受け継ぐ物語」

 

エオルゼア読書倶楽部にて同じ本を読んで感想文を書いてみようという企画があり、ヘミングウェイの「海と老人」を読んだ。

ヘミングウェイ!!

聞いたことはあるけど、著書は読んだことがない海外作家だ。

訳書がいくつかあるが、今回は光文社古典新訳文庫小川高義訳を読んだ。

 

あらすじとしては、漁師の老人サンチャゴが海で巨大なカジキを3日間かけて釣り上げるけど、沖に出すぎてせっかく釣ったカジキをサメに食べられるって話。ここだけ切り抜くとどうにも間の悪い話だな。

 

老人と海」では、単身でカジキやサメと格闘するサンチャゴの描写が殆どを占めている。サンチャゴの年齢については名言されていないが、自分は60過ぎ位を想像していた。老人が主役を張るストーリーってあまり読んだり観たことなかったなーというのが最初の感想だった。

老人って、物語の中だと主人公側の「導く者」だったり敵役の「邪魔する者」といった役割を与えられる印象が強くて、老人単体でその描写が描かれるのってあまりないイメージだった。

老人が主役というと、自分の中ではロッキー・ザ・ファイナルくらいだろうか。ロッキー・ザ・ファイナルは50代後半のロッキーが現役のボクサーに戻って、自分の寂しさ侘しさと戦い、情熱を取り戻していく話であった。老人として失っていくものがあっても、それに屈さずに闘っていく姿がサンチャゴとロッキーで重なるように思えた。

双方とも、「失っても屈さざる者」として老人が描かれているように感じる。

 

サンチャゴの胆力は凄まじいものがある。

サンチャゴも妻を亡くし、84日にも及ぶ不漁に見舞われ、年齢以上に漁師としても老いて周りから食料を恵まれているような状態だった。しかし、一度カジキが餌に食いつけばほぼ不眠不休で3日間縄を引っ張り続け、意識を朦朧とさせながらも銛でカジキを仕留める。

仕留めたときは本当に満身創痍で、縄が擦れて手のひらはズタズタ、3日間の漁で意識は途切れ途切れ。それでも「やってやろうぜ」と気合を入れ、何度も縄を引き寄せてようやく仕留めることができた。

だが、めでたしめでたしでは終わらない。カジキは巨大すぎて船に乗せることができず、横付けにして港へ戻ろうとするも、沖に出すぎてすぐには戻れない。そうこうしているうちに、血の匂いを嗅ぎつけたサメにカジキを襲われる。最初のサメには銛を取られ、棒につけたナイフで応戦するも3回目のサメにナイフを折られ、最後は棍棒や舵棒まで使って応戦する。サメに食われるたびにカジキを釣ったことを後悔しそうになるが、「だが、人間、負けるようにはできてねえ。ぶちのめされたって負けることはねえ」と奮起して、ともかく港まで戻ってくる。結局カジキは殆どを食われていた。

普通なら発狂しててもおかしくないような状況だ。実際、この話の元になった話では、カジキを食われた漁師は半狂乱で泣き叫んでいたという。しかし、サンチャゴはショックを受けてはいるだろうが、「負けてしまえば気楽なものだ」とどこか吹っ切れたような言葉が印象的だ。

 

私はこの後のサンチャゴが港へ帰ってきた後の場面が一番好きだ。

家々がまだ眠りにつく静けさの中、何度も倒れながら家に帰るサンチャゴ。骨だけになった巨大なカジキをみてサンチャゴを憐れむ漁師たち。サンチャゴと親しくしている少年マノーリンが入れてくれたコーヒー。静かな中で皆がサンチャゴを思いやっている。

マノーリンに対して、「俺には運がない。もう見放された」と一度は言うものの、マノーリンに、「まだまだ教わることはある、運なら僕のを持っていく」と奮起され、やる気を取り戻す。

あんまり「老人と海」の主題みたいなのとは離れる気がするんだけど、老人から若者に引き継がれるものみたいなのが自分は好きだ。「老人と海」ではサンチャゴは散々な目にあってるんだけど、漁師としての誇りみたいなものは持ち帰ってるような気がして、ボロボロになった手を見たマノーリンはその誇りを受け継いだような気がするんだよ。この場面を悲劇的と見るか救いがあるとみるか人それぞれだと思うんだけど、私はここに希望を見出した。誇りを受け継いだマノーリンは、この後もサンチャゴと一緒に大物を狙いに大海原へ漕ぎ出していくのだろう。

と、そんな感じで、私は「老人と海」を「失いながらも、誇りを取り戻し、受け継いでいく物語」として考えた。冒険活劇のような冒険、挫折、成長みたいなものはあまりない静かな物語だけど、どん詰りの爺さんが一世一代の大立ち回りをして、若者にその意気が伝わっていくのがとても好きになった。