沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

書くことと私

この度、リアルの人に自分のブログを教えるという経験をした。

感想として印象的だったのが、「ちゃんと人間ぽかった」という言葉。

 

ふと、高校の時を思い出した。

「何を考えているかわからない」と今まで度々言われてきた。

「君はどう思う?」って何か聞かれて、自分なりに答えたんだけど「それは一般的な考えでしょ、君がどう思ってるのかを聞きたいの」って言われた思い出がある。具体的にどういう話をしてたのかはもう忘れてしまったけど、返答に困った印象だけが頭にこびりついている。

 

私は何事もパッと答えられない。

根本的に記憶力がないのか、記憶を引き出す力が弱いのか、とにかく頭の引き出しの中からパッと言葉を出して話すのが難しい。

好きな料理や食べ物という簡単な話でさえ、改めて聞かれると「うーん、何なんだろう…」とうまく言葉が紡げない。大体はハンバーグとかカレーとか「嘘では決してないんだけど、それが完璧な正解かと言われると疑問がつく」みたいな回答をしてしまう。いやそもそも別に完璧な正解なんて求められてなくて、ただ話のタネにしたいだけなんだから、そんなのパッと思い浮かんだやつ言っておけばそれでいいとはわかってるんだけど、こう、どうしても性なのか「自分自身も深く納得するような回答」を探しちゃうんだよね。

何か質問を受け付けると、頭の中で自動的に反証を始めてしまうような気がする。「ハンバーグが好きって言ってるけど、どんな具材を使っててもそう言えるの?」とか「もうお腹がはちきれそうになっていてもハンバーグを食べたいと思うの?」とかとかとか…。

私の頭もそんなに高性能ではないので、無限に現れる反証に処理能力が奪われて、いよいよ何もしゃべれなくなる。

 

そういった場面を離れて、ぼーっとテレビ見てたり、ネットの情報を浸かってたりする時にふと、「あ、こういうのいいな」って納得する回答が出てきたりする。

こういう納得した回答が出てきたときは、何かしらメモったりして、さらに興が乗ったときはブログに書いたりする。

そんなわけで、自分の納得できるような言葉はブログに多い。書くことで私が形作られていくような感じ。もちろんそれだけが私の全部ではないけどね。

このブログは自分の説明書になるようにという目的もあるため、ある程度その方向では成功しているのかもしれない。今後はもう少し素朴なこと(好きなところや行きたいところとか)について、自分の納得する答えを書ければいいかなーとか考えている。

 

リビングのマットが直せない

リビングにマットが敷いてある。ニトリで買った正方形のマットをいくつもつないで1枚のマットにするやつ。それがグチャグチャになっている。

 

www.nitori-net.jp

こんなやつ。

 

何年か使っているうちにジョイント部分がへたって、うまく繋がらずグチャグチャになってしまい、そこここにフローリングが丸見えになっている。グチャグチャになっているのに直せない。

グチャグチャのマットは椅子を動かすたびに引っかかる。邪魔だな…って思いながら椅子を直して、マットはそのまま。新しいものに換えれば綺麗になるのにと話す天使を、惰性の岩で押しつぶす。どうせ直したってまたグチャグチャになるんだから。

 

グチャグチャから目をそらすようにiPadYouTubeを開く。ホームに出てきた動画を見る。Vtuberの切り抜きを見たり、アニメを見たり、音楽を聞いたり。1時間くらいそうしていたらもうマットのことなんて忘れてる。見えているはずが見えないようになっている。

適当に動画を見てると色々な「やらないとな…」が忘れ去られていく。グチャグチャのマットも、かごに積もった洗濯物の山も、油で汚れたキッチンも、とっくに必要なくなった書類で埋もれた机も。

一通り忘れてしまえばもう明日が来る。「やらないと…」を明日に持ち越しながらずっと暮らしている。

 

いいじゃないか。どうせ困るのは私しかいないんだから。私が許容できる範囲で部屋が汚れるのはなんの問題もないはずだろう。

そう、問題ないはずなのに私はこれを書いている。このグチャグチャのマットのことを書いておきたいと思っている。それはやっぱり心のどこかでマットのことが引っかかっているのだろうと思う。

今日は帰ってから動画を開かず、これを書いてみた。動画を見るというルーティンが崩れたからか、みぞおちのあたりがどーんと沈んでいるような気持ち悪さがある。単に腹が減っている可能性もあるけど、お腹が空いたー!って感じとはやっぱり少し違うように思う。この気持ち悪さは「やらないとな…」が降り積もってできてるように感じた。

今の私の家はそこら中に「やらないとな…」が降り積もってて、動画を見て一息つかないとやってられないんじゃないだろうか。それならこれはお酒を飲んで気持ちを紛らわすのとほとんど違いがないな。

とはいえ、そう考えたからって、じゃあすぐに積もり積もったやらないといけないことを解消できるんかっていうと、そう簡単に体は動いてくれないようで。とりあえず、もう完全に使えないようなマットは今ゴミ箱に捨てたけど、それは結局「マットを何とかしないと」が「ゴミ捨てに行かないと…」に変わっただけなんだから、なんか元の木阿弥って感じ。

やっぱりなんか、「やらないとな…」って面白くないんだよな。もっとなんかこう、自分を駆動させる面白さが欲しいなーなんて思いながら、収集つかなくなってきたので、ここらで閉じよう。そうして私はYouTubeを開くのだった。

コンテンポラリーダンスのワークショップに行ってきた

こちらのワークショップに参加してきた。

以下の記事を偶然見たことがきっかけとなった

dialogue.panasonic.com

 

何を検索してここに辿り着いたのかは忘れてしまったのだが、興味をかきたてることが書いてあった。

その場の状況に合わせた居方を自然に整えていくためには、「感覚」を研ぎ澄ませて身体に意識を向け、今この瞬間の自分に集中することが必要です。

もともと座禅を通して、身体感覚に注意を向けることに関心を持っていた。上記の記事の中でも身体感覚を研ぎ澄まして、今この瞬間の自分に集中することが書かれている。身体感覚への集中を通して、ワークショップの経験が座禅に上手いこと繋げられないか?というのが気になった。

鈴木さんは定期的にワークショップを開催していることを知り、それもダンス未経験者でも全然可とのことだったので、これは参加するっきゃねーと東京まで赴いたのだった。

 

ワークでは肩や背中、胸、腰に注意を向けながら、体を動かしていくことが主になっていた。後半では自分で各々が自由に体を動かしたり、他の人が動かす新聞紙を真似て体を動かすワークを行った。コンテンポラリーダンス自体が、型や決まりのないダンスであるらしく、体の動きを意識しながらもできる範囲内で自由に動かしていく。要所要所で緩急や強弱を意識してみるようアドバイスが入るが、あくまでそれもできる範囲内でできればいいといったものだった。

ダンスと言えばバレエやヒップホップダンスのイメージで、決まった型や技を上手く出していくものしか知らなかったので、この自由さがとても面白かった。

 

肝心の身体感覚については、ワークの間中ずっと意識していた。肩、背中、胸、腰の感覚を普段の何倍も意識しながら動きを付けていく体験はとても新鮮なものだった。あと、こういう踊りとかって、他の人から見られるのが恥ずかしいかもと思っていたのだが、他の参加者もみんな自分の動きに集中していて、いい意味で無関心というか自分の世界に入っている状態で、自分としてはとても居心地が良かった。

ただ、最初のテーマであった「座禅との接続」については、カチッとした何かは得られなかった。これから座禅するときに身体感覚をより意識できたりするかもしれない。座禅前の準備で少し今日のような体の動きをしてみてもいいかもしれない。

 

さて、当初は座禅に関連した興味で参加したが、それはそれとして単純に体を動かすのが楽しかった。

運動らしい運動なんてここ数年してきていないが、体を自分のペースで自分の好きに動かすのが許されている環境というのが心地よかった。これが「この型の通りにこの順番で踊れ」っていうワークだったら、多分こんな気分にはなっていなかっただろう。

どうも自分は決められた規則通りに何かをやるのが苦手らしい。ギターでも一番楽しいのは自分で譜面とかなく無茶苦茶に弾きまくっているときだ。楽譜を持ってきてその通りに演奏しようとすると途端に苦しくなってしまう(それでも技術あげるためにやらざるを得ないのだが)。そんなわけでワークショップとはいえ、楽しく体を動かせた体験はなかなか貴重なものであった。

最初は正直このためだけに東京行くのか?って迷っていたけど、結果的に凄く面白い体験ができた。名古屋あたりで同じようなワークショップあったらもう一度行ってみたい。

 

 

弱さで繋がることの困難さ

先日コンプレックスを持つ者同士が自身のコンプレックス体験を話し合うという会に行ってみた。自分自身にコンプレックスがあるものの、そういったことは友人やましてや家族にもなかなか言えない物がある。前々からコンプレックスについて誰かに話してみたいと思っていたので良い経験になった。なお、ナイーブな話になるのでどのようなコンプレックスについてかは伏せておく。

 

個人的には普段話せないようなことを安心して話すことができる場だったので、行ってみてとてもいいなと思った。人のコンプレックスの内容を聞いて、「あ、自分もそういうのが嫌だわ」と言語化できたり、反対に「うーん、そういうところは相容れないな」と違うところを発見したり、自分のコンプレックスの解像度が上がったと思う。

ただこういったみんなで話すという場で、癒されるとか心が軽くなるとか人と繋がるといった気持ちにはあまりならないなと感じた。もちろんこの辺の効果というのはとても個人差があることは前提の上で、自分が感じたことを言語化してみたい。

 

自分がこの会でポジティブな効果を感じにくかった原因は嫉妬だった。

会の中では、自分の苦しかった経験とか困ったことを話したりするのだが、当然人ごとに体験にグラデーションがある。同じコンプレックスを共有しているとはいえ、人によってははっきり言って羨ましいと感じるような体験をしている人もいる。自分が求めても全く手に入らなかった体験をしているのに、それが苦しいと言う人がいる。それを聞く私はどうしても嫉妬心を感じてしまう。まさに隣の芝生は青い色。

とはいえ、それは多分私についても同じことで、誰かから見たら私の体験も、もしかしたら羨ましいものに思えるのかもしれない。「そんな幸せな状態で苦しいとはなんだ」と思われることもあるのだろう。

これがどうでもいい話題の時ならそんなに嫉妬することもない。だが、えてしてコンプレックスや弱さというのは適当には済ませられないところがある。普段の生活では抑えられていても、いざそれに向き合おうとすると傷がえぐられるような気持ち悪さを覚える。だからこそ弱さで繋がるというのは、ただ趣味とかで繋がることよりもよっぽど難しい。

 

苦しみは個人特有のもので、比較してもしょうがないんだけど、どうしても「いや、私のほうがよっぽど苦しいが??」と自分の中で不幸自慢が始まってしまう。不幸自慢をし始めれば、自分の不幸を立証する証拠集めをし始める。その先はどこまで行っても誰かと自分を比較し続ける無間地獄だ。

そんなわけで、同じコンプレックスを持っていたとしても結局どこかで断絶を感じてしまうなーというのが参加してみた感想だった。こういう感情をうまく処理して繋がりを作っていける人もいるんだろうけどね。嫉妬心はなかなか処理するのが困難だ。

 

実際のところどうしようもないのだ。嫉妬心とか人と比較してつらいとかって話をすると「人と比較しないようにしよう」とか言う人もいるが、それはその人にとってどうでもいいことだからそんなことを言えるのである。人間が人間の世界で生きる以上、比較する心はどうしようもなく存在せざるを得ない。ましてや自分が気にしている弱さならなおさらだろう。比較をするから嬉しいし、楽しいし、悲しいし、苦しい。比較する心から離れようとするアプローチもあるにはあるけれど(仏教とかね)、どうしたって一般的なアプローチではないし、単純に難しい。

だから、嫉妬心も比較もそれ自体は仕方ない。それがあるまんまコンプレックスについて話したり、繋がったりできんもんかなーとか考えている。もちろん、そんな嫉妬心を掻き立てられる人と繋がる必要はないといえばないんだけど、せっかく同じようなコンプレックスで話ができるのであれば、そのほうがいいだろうとも思う。

 

この辺ほかの人はどうしてるんだろうね。うまく嫉妬心と付き合いながら、人と付き合う方法はないものだろうかと考えるこの頃。

 

読書感想文「なめらかな世界と、その敵」 

伴名練さんという名前はツイッターか何かで見たことがあった。ただ「SF」というジャンルにあまり興味を見いだせず、面白いと聞いて気にはなっていたがそのままスルーしていた。しかし、エオルゼア読書クラブで読んでいる人がいて、自分も触発されて読んでみたところ、私の想像していなかったSFがそこに広がっていた。

私がSFと聞いて思い浮かべるイメージは以下のものだ。宇宙、異星人、星間戦争、ロボット、AI、クローン、汚染された地球、惑星移住、コールドスリープ、ワープ移動etc…。

また、それまでのSFでは「何が起きているのか、どんな技術があるのか」というあったコトに焦点が置かれているようなイメージがあった。何年に〇〇があって、こんな技術が生まれて、こんな問題が起こって云々って感じ。

本書では、そのイメージをバキボキに破壊された。本書では「何が起きているのか」より「誰がなんでやったのか」という人同士の関係に焦点が当てられていると感じた。サイエンスの部分が背景情報になって、「それを使ったら、それがあったら人は何をして、何を思うんだろう」みたいな人間の感情や情動がもっと前面に出てきているようなイメージ。本書の解説の言葉を使うなら「エモさ」の比重がとても高い。各話ごとに読み終わった時は青春小説を読み終わった時のように、本を置いてハーっと余韻に浸る。私はこういう話が大好きなのだ。

全体を通して、SFのイメージを一新させた本であった。

以下で各話ごとの感想を書いてみる。

 

「なめらかな世界と、その敵」

表題作。量子論多世界解釈みたいな、様々な可能性の私を自由に行き来できるのが普通になっていたらどうなるのだろうという思考実験のように感じた。

暑さで目が覚めて窓の外を見ると、青々と茂った草木に雪が舞い降りている。序盤から不思議すぎて????になるが、この世界ではこれが普通。無限にある様々な可能性の私の意識を行き来できるのが通常の状態なのである。その中に私達と同じ「今のこの私」しか生きられない人が現れたらどうするんだろうみたいな話。

読んだときに、こんな設定を入れてくるのか~と感嘆した。「私以外が私であったらどうなっていたんだろう」みたいなことを考えた人はそれなりにいると思うんだけど、意識を自由に選べる人の中に、選べない人を入れたらどうなるだろうなんて考えたことがなかった。色々な世界を行き来する不思議な小説になっていて、特に終盤の疾走感は脳内イメージが素早く切り換わっていってとても面白かった。

 

ゼロ年代の臨界点」

これ読んだ人の中で「あれ、もしかしてこれって結構な程度、史実に沿って書いてるのかな」と無邪気に信じた人はどれくらいいるのか分からないが、私がその1人だ。だって具体的な西暦年もあれば、具体的な人物名もあり、挙げ句注釈まで備えてあって、実際にあった体で書かれてるから、かなり終盤になるまで「もしかして史実として実際にあったんだろうか」とちょっと信じかけていた。女性作家3人の文学を通した悲喜こもごものやり取りが印象的な作品だった。

 

「美亜羽へ送る拳銃」

伊藤計劃「ハーモニー」にオマージュされた作品。インプラントを脳に埋め込み、永遠に特定の人間を愛するように仕立てることができる技術が確立された世界が舞台になっている。

読んだ後にこんなギャルゲーありそうだなって思った。いやあるはず。意図的に作られた愛情を受ける主人公が、その愛情に嫌悪感を抱く展開あると思います。ギャルゲー小学校卒業生だからやっぱり恋愛要素のある話は好きよ。

 

ホーリーアイアンメイデン」

その手で抱いた人を全て倫理的な思想にしてしまう姉と、姉に変えられていく世界を見る妹の話。全編、妹から姉に宛てた手紙の形式で物語が進む。妹の視点から見た姉妹のあり方の変化が見どころ。

 

「シンギュラリティ・ソヴィエト」

人工知能が極度に発達したソヴィエトを舞台にした話。見渡す限りの路面を赤ん坊が這いずっていたり、赤ん坊を通して人工知能が司令を下したり、一般の労働者がいきなり工作員に変貌させられるといったなかなかに薄気味悪い舞台設定となっている。ソヴィエトの工作員アメリカの工作員人工知能バトルとミステリー要素が面白かった。

終盤の展開では、人工知能が個人レベルの認知まで操作できるような世界でやることがそれかよと驚いていた。

 

「ひかりより速く、ゆるやかに」

本書で一番好きな話。シュタインズゲートの「跳べよおおおおぉぉぉ!」が好きな人は多いと思うが、あれと同じような感情を味わえるぞ。

特定の場所の時間経過が極端に遅くなるという舞台装置が面白かった。亡くなったわけじゃない。停止したわけでもない。ただ極度に時間の進みが遅くなっている。救出は絶望的だけど、いつか普通に動き出すんじゃないかという希望も捨てきれないという葛藤を生み出してるのがずるい。気づいたら数千年後の未来にいましたって話はいくらでもあるけど、残された側の視点での話は私は初めてだったので新鮮だった。

あと、終盤の2人のやり取りがな、最高なんだよ。朝の静けさの中で、久しぶりに再開した2人のやり取りに万感の思いみたいなものが込められてて、しばらく余韻に浸っていた。

 

こんなところかな。

伴名練さんの他の著作もまた読んでみたいと思える、ガツンと来た本になった。

謎解き街コン結構面白かった

先日の街コンつまらんかったって話を出したところ、白夜さんのアドバイスで体験型婚活イベントもいいかもと言われたので、謎解き×街コンのイベントに参加してきた。

 

前の記事

numamemo.hatenablog.jp

 

どちらかと言うと街コン行こうっていうより謎解きやってみたいのが大きくて、楽しめればそれでいいかなって感じで参加した次第。

謎解きの内容は、近くの商店街の中を巡って、暗号とかを解いていくもの。謎解きといえば脱出ゲームと考えていたので、外を周って謎解きをするのは新鮮だった。

 

参加者は男性6人、女性4人。5人ずつの2チームに別れ、前後半でメンバーを入れ替えながら謎解きをしていく形となった。

30代以上の街コンだったので、参加者は大体落ち着いた感じの人が多く、年上も結構いた。ただ、若干名「お前、絶対今まで彼女とか困ったことないだろ…」(ド偏見)と思うような高身長イケメンが混じってたのは、何かのバグじゃないかとなんだか面白くない気分になった。まあ、当然人様の背景など知るよしもないので、どういう気持ちで参加しているのかなんて全然わかんないんだけどね。

 

今回の街コンは結構面白かった。

リアルの謎解きってしたことなかったから新鮮だったし、共通の話題もあるから話しやすくはあった。謎解きっていうとネット上の脱出ゲームを人とやったことがあって、あの時もあーでもないこうでもないと話しながらできたので、それをリアルに持ってこれるのは面白い。なお、全然解けない場合は結構ストレスになることもあるのでその辺はバランス感覚が必要かも。

また移動で体を動かしながらだから、座って話すより単純に話す量が増えるのが良かった。多少でも体動かしながらのほうが喉がよく動くように思う

全体的に終わったあとの満足感は高かったので、今後も参加するとしたらイベント系のほうがいいように思った。

 

しかし、当日遊ぶのはまだいいとして、連絡先交換って難しくないか?

「せっかくの機会だから」ってだけの連絡先交換しても大概その後に続かない。「ここ行きたいから連絡先教えてよ」みたいに、連絡先交換にある程度必要性がないといけないんだけど、そこまでの流れにするのが難しいのよな。

あともっと根本的な問題として、複数人と交換した場合、誰が誰だか分からんという

問題がある。ただでさえ人の名前覚えるの苦手人間なのに、イベントの名前とLINEとかの名前が違うとまじで誰が誰やらになって何にも分からんくなる。全人類、あらゆるアプリ上の名前を統一してくれ!。もしくは忘れたくても忘れられない海馬に優しい名前にしておいてくれ!。

 

あとこういう場に参加すると思うけど、男女問わず誰とでも仲良くなれる人ってすごいよな。例えばこういう街コンみたいな場で参加者みんなに気が使えて、場を盛り上げられる人。ああいう人羨ましいなーって思うけど、実践はなかなか難しい。歩きながら隣の人と話しているときに、どうやって後ろの人とかに話せばいいのか分からん。あと、何となく前2人で自分が後ろで1人になったときの話し方が分からん。みんなこの辺どうやってるんだろう…。

 

それから、おれが友達作り苦手なだけかもしれないけど、あんま男性同士で仲良くなるってない感じがする。

街コンに参加していると、女性同士は初対面の参加者同士で仲良くなる人もいるけど、男性同士で仲良くなる人はあまりいない印象がある。男性から女性へ連絡取ることは当たり前にあるんだけど、グループでまた会いましょうみたいなことは皆無だった。

当日会っただけの関係なんだから当然っちゃ当然なんだけどさ。男性同士でも友達作れたら面白いかもしれないなーなんて思ったりもする。私の場合はそれ以前の段階かもしれないが。

 

そんな感じで結構面白い体験になったのだった。

街コンおもんな…

先日街コンなるものに行ってきたので、その時の記録。

感想:おもんな

この歳になってきて、ただ出会いが無いなどと言っているだけでもいかんだろうと、とある街コンに参加した。

街コン自体はコロナ禍前に1回行ったことがあったので、それ以来の参加になる。

今回の街コンは男女それぞれ40人の計80人くらいの街コンだった。1テーブル4、5人で話して、15分経ったら男性側がテーブルをぐるぐるしていくタイプである。ビルのイベントスペースに80人が押し込められ、なかなか密な環境下でガヤガヤ騒がしい状態になっていた。

 

最終的に「おもんな…」と感じた理由としては、初対面の人間のプロフィールに興味持てないことと、みんな思考スピードが速すぎてついていけないなーというのが大きいと感じる。

挨拶はまあいい。普通にこんばんは~だ。

次に自己紹介。これもまあ定型文を言えばいい。

じゃあ、次は?

 

当初はプロフィールカードをみんなで見せあって、とりあえず話できそうなことをちょこちょこ話せばいけるかなーと甘く見積もっていた。

最初の席で他の人のプロフィールカードを見てみる。プロフィール欄にはニックネーム、居住地、趣味、仕事、好みのタイプ、自分の性格etc…。

……興味ねぇ~…。

 

今日会っただけの人間に対して、趣味だの好みのタイプだの、ましてや自分の性格だの本当にどうでもいいなと思ってしまった。こういうのに興味持てて、積極的に質問する人もいるんだろうけど、今の私には話を続けるのが正直きつい。

これが何かイベントなどで継続的に付き合いがある人の話であれば、面白く聞いたり、どんな感じなの?と質問しやすいと思うんだけど、初対面で、なおかつ今後会うことはほぼ無いだろう人間の話を広げるのが難しいと感じた。

 

それから、みんな思考スピードというか話すスピードが速い。

自分と一緒に回ってた人達は営業職というのもあってか、特に話も上手いしノリも良かった。それ以外の人達も、パンッって話された内容に対してポンッって答えてるように自分には見えた。カッと言ったらトツッと答えるみたいな応答速度なのである。

その点、どうも私は昔からポツッ、ポツッって感じの話し方になってしまうので、どうしても周りに圧倒される。私が1つ話す間に、他の人は5つくらい話しているって状況が結構な頻度で出てくる。

これがゲーム内チャットとかなら、多少応答速度が遅くなっても問題ないんだけど、リアルの会話ではどうにもうまく速度のギャップが埋められない。ましてや周りがガヤガヤしている中で相手の話もよく聞こえない時もあったので、余計に会話が困難であった。

 

そんな感じで、どうにも楽しめない街コンとなってしまった。

ただ、つまらなかったけどあんまりネガティブな感覚は少なくて、むしろ「つまんな…」と思えること自体が、よい兆候であるようにも思っている。

今までの私だと、こういうことがあると面白いつまらない以前に「なんで私は上手く話せないのだろう」「人を楽しませる話ができないのだろう」と自分を責めてネガティブになっていた。

 

今回は、そういうネガティブな感覚を持たないわけではなかったけど、それ以上に「つまんねぇ…」という感想が一番前に出てきている。

自分の会話が拙かろうとなんだろうと、つまらんもんはつまらんと感じられるようになったのは多分よい兆候であるように思う。もしくは図太くなったか。人生開き直りが大事だから、まあこれでよいのでしょう。

また街コン行ってみたい気分になったら、もう一回くらいは行ってもいいかもね。