沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

始業直後にトイレ行きたい

最近妻のおかげで、割と健康的な朝ごはんを食べており、便通もいい感じなのだが、困りごとが一つ。

始業直後にトイレに行きたくなる。

 

仕事が始まる直前まではそんなに行きたい感じではないのだ。でも仕事が始まって本当に5分くらいすると急激に便意が高まってくる。

でも仕事が始まった直後である。そのタイミングで席を立つのって、仕事をしたくないからこの時間までトイレ行かなかったのか?とか、仕事始まる前に行っとけよみたいに見られそうで不安になる。

始業から1時間くらいは持たそうと何とか頑張る。持たせられるときもあるが、もう我慢できなくなることの方が多い。しかも仕事の都合上、始業から30分経つ頃から業務が多くなってくるのだ。始業後30分でもう無理!ってなると、これから忙しくなるって時にいきなり席を立ってトイレに行く始末になる。

行くなら早いうちに行ってしまった方がいい。

しかし、早く行き過ぎては変に見られかねない。

最近はそんな「早く出せ!VSまだダメ!」の葛藤に悩まされてる。

どうして便意はちょうどいい時に高まってくれないのか。

ちなみにうっかりしていない日には始業前に出しておくこともあるが、小の方がなぜかすぐに再充填されてしまい、1時間後に再度トイレに立つことが多い。始業直後に行くよりはましだが、もう少し持ってほしいな~と思う今日この頃。

 

気が利かない人間ですんません

先日、仕事で会議があった。

自分はその会議の中では一番下っ端になるが、部屋の用意とかは課長の一つ下の人(Aさん)がやっており、自分は部屋に行って必要な報告をするだけ。

この時点で既に気が利かない人間という感じが出ているが、今回の本題はそこではない。

会議が終わったら扉を閉め、鍵を返却する必要がある。そこで自分の上の立場の人(Bさん)が「僕が返してきますよ」と鍵を受け取った。

絶対に信じてもらえないと思うが、俺もそれを言うつもりでいた。本当に。

しかし、Bさんの方が早く言ってしまったため、自分は「あ、じゃあいいか…」となってしまい、そのまま自席まで戻ることにした。

自分たちの部署は1階にあり、鍵を返すには5階の部署に寄る必要がある。先ほどのAさんとBさんが、2人で話しながら階段を降りているのが背中越しに感じられた。会議で出た課題についてあれこれ話している様子だ。

「ちょっと鍵渡しに行ってきますね」

「あ~、じゃあ私も行きます」

そんな2人のやり取りを頭上で聞きながら、自分は1人階段を降りていた。

ふと、気づく。自分が鍵返しに行ってたら、2人とも話しながら直接部署に帰れてよかったな…。

そう思い始めると、(やっべ~、気が利かない部下だと思われてるかも)と急速に心配になってくる。とはいえ、今から階段を少し登って「自分が返しに行きますよ」というのもあまりにも不自然なので、気まずい気持ちをそのままスルーして、自分の席に戻ったのだった。

 

2人の視点からみたら、鍵を返しに行くわけでもなく、一緒に話に入ってくるわけでもなく、結局すたすた階段を降りて行ってしまう部下になるわけで、少なくともプラスの印象が残るものではないだろう。多分どうも思ってもいないだろうが。

 

席に座って、おそらく一緒に鍵を返しに行って少し遅れて座った2人を視界の端に捉えながら、(気が利かない人間ですんません)と心の中で謝っておいた。

 

このことをブログに書くことをGeminiに話したら、「申し訳ないという気持ちだけでなく、次はこうしたいというという前向きな部分も加えてみてもいいかも」と言われた。

それに対する自分の返答は「そんな教訓めいたことを書きたくない」だった。

うん。俺はこれを書いて、「次からはちゃんと自分から声かけをして気配りしようと思います」なんてことを書きたいとはやっぱり思わないな。

どうせ次もその次も同じように出遅れて、同じように気まずくなって、同じように心の中で謝るのだろう。そのうち俺にしてあげられることができたら、その時はしてあげようと思う。

それが1か月後か、1年後か、100年後か、1000年後かは分からないけれど。

欲望の中で座禅することについて疑問

自宅での座禅体験

先日、どういうわけか興が乗って、自宅で座禅をしてみることにした。
妻は仕事でまだしばらくは帰ってこない。必要な家事も大体終わっている。そして今日は仕事も大体順調に進められて気分がよい。普段は家で座禅をやろうなんて思わないが、調子が良いのでやってみることにした。
座禅自体は1ヵ月に1回程度お寺に行って、45分4セット程度している。やり方は大体わかるし、最近は座ること自体はそんなに苦痛にもなっていなかったので、まあ45分くらい余裕でできるでしょうと高を括っていた。

そうして座り始めて数分後「え!やめたい!」と思い始めていた。

お寺で座禅するのとは全く違う感覚。苦しい気持ちがブワッっととめどなく湧き上がる感じ。
ネトフリで何か見たい。スマホで動画見たい。甘いお菓子があったんだった...etc

お寺で座禅している時に感じるのはとにかく眠気と妄想で、何か物理的な娯楽を渇望するって感じはなかったから、ちょっと歩けばすぐに娯楽にありつける状況で座っていると、これほど欲望で苦しいのだと衝撃を受けた。
結局45分は耐えられず、30分くらいでやめて、スマホを触り始めたのだった。
まさに「人は静かに座ってくつろぐこともできない」というのが実感できた体験だった。

 

座禅の方向性の疑問

この自宅の座禅の時に一つ疑問が生まれた。

座禅の目指す方向性として以下のどちらが良いのか。

  • 「欲望をブーストさせる様々なものがある環境下でも静かにずっと座っていられる状態」
  • 「自分の欲望をブーストさせる環境を排除して座れるように調整していく形」

言い換えると次の2人の師匠どちらの言うことを聞いてみたいかととも言えるかもしれない。

  • 師匠1.「私は眼の前に誘惑があろうが、全く心が乱れずに座ることができる。誘惑がある状態でできてこそ真の座禅だ」
  • 師匠2.「すぐ近くにそんなものあったら集中して座禅できないよ。できるだけ心を乱すものを遠ざけて、静かな環境で座禅するのがよいよ」

私としては、たまにスパイスとして欲望環境で座禅するのはいいと思うが(今回みたいに自分の欲望に気づけるから)、基本としては欲望を排除して座禅するのがいいのかな~と漠然と感じたところ。
それに欲望環境で座禅すると「どうだ、こんなにも欲望が多い場所で静かに座禅できたぞ。俺は真の座禅に近づいている!」みたいなしょうもない我慢大会自慢を始めてしまいそうで、それはいやだなとも思う。

そんな疑問を今回の座禅会で、主催者であるお坊さんの遊民さんと遊心さんに話してみたので、それの覚書を書いておく。あくまで全体の話を自分で咀嚼したことを書いているので解釈違いがあったら申し訳ない。
座禅をして欲望に対する耐性みたいなものが育つというのはあるとは思うが、それに頼って雑踏の中で座禅するみたいなのはあまり良くないように思う(過去にそういうお坊さんがいたらしい)。
座禅することで自分が透明になっていくけど、その後に自分を律する計画を立てることで、新たに自分の色を塗っていくことができるように思う。自分にどのような色を塗っていくのがよいのかまで決めることが大切なのではないか。

そんな感じのことを言われて、とりあえず自分は欲望座禅はスパイスとしてちょっと入れてくだけでいいかな~と思ったりした。

 

ゲーム画面と1人称視点

あと、こっちは当日言わなかったがちょっと残しておきたい。

今回の座禅会の経行中に、何となく「1人称」になったな~みたいな瞬間があった。
いや、人間誰でも1人称視点だというのはわかるのだが、なんというか普段の自分って「巨大画面の1人称ゲームをコントローラー使って動かしている」ように感じてるような気がする。これも別に普段から思ってるわけじゃなくて、経行中に改めて考えたらって感じではあるんだけど。

あれやって、これやって、あれをやってもらったからこれ返して、そしたらこっちに対応して……。
日常って何となくこんな感じで、これって1人称視点の画面を、別の私がコントローラーで動かしているみたいだな~って感じ。自分は画面の中の人で、本体は別にいるみたいな。

それが経行中、画面を見ている視点から1人称視点になって「ああ、この視点って自分だったわ、この腕って自分の腕だったわ」みたいな感覚になった。
文章で書くと何当たり前のこと言ってるの…?ってなるんだが、もうそうとしか言えないからしょうがないわね。
そういえば私は音楽ライブとかを、楽しんでいる自分を俯瞰的に見てしまって、「何やってんだ自分…」となってあまり楽しめないタイプなんだが、この1人称の視点であれば素直に楽しめるのだろうかと思ったりした。

 

numamemo.hatenablog.jp

 

しかし、一抹の不安も感じた。この1人称の感覚で、あれやって、これやって、あれをやってもらったからこれ返して、こっちに対応してっていうのが上手くできないように思うんだよな。
未来のことを考えられないというか、コレ!ココ!終わり!って感じ。

未来のことを考えてパッパとタスクを片づけるのは圧倒的にゲーム画面視点の方が優れているように思う。

 

本当に感覚のことだけしか言えてないから非常にあいまいな記述になってしまうが、こんな感じのことが起こっていた。1人称の感覚はいつの間にか消えていて、いつもの感覚に戻ったんだけど、またあの1人称の世界を見て、できれば1人称とゲーム視点を行き来できるようにしたいと思った。

全てはできないけど、諦めきれぬ

トイレに行きたくなって、目が覚める。重だるい体を引きずってトイレで用を足す。

ボ〜ッとしながら、なんで床で寝てたんだっけと昨日を思い出す。

昨日は、上司からの意義のないような質問に答えてーあの上司、俺にだけ当たり強いような気がするんだよなー、残業して、買い物して、9時ぐらいに家に帰ってから簡単に食事して、ダラダラスマホ見てたら眠くなってきて、ちょっと仮眠のつもりで床に寝転んだところで記憶が消えていた。

 

歯車が狂っている感じがする。もっとやりたいことが沢山あるのに、全然そっちの歯車が回っていかない。

遅く帰ってくる彼女にスープでも作ってあげて、エオルゼア読書クラブに行って、デスストランディング進めて、フィットボクシングで汗を流して、シャワーを浴びて、国勢調査の書類書いて、布団で寝たいと思いながら何もできなかった。

 

33歳。

環境の変化もあるのだろうが、色々なところが昔の想定とは違ってきている。

昔は残業しても、ポテチ1袋でご飯にして、ゲームを初めて25時に寝れれば大丈夫だな!って思ってたけど、そもそも25時まで起きているのが難しくなった。

体調面で言えば、32歳ごろから急激に体重が増えた。BMI的には標準値ではあるが、上り幅がエグくて、今まで通りポテチ1袋でOKとはいかなくなってるんだなと悟る。

健康のためにフィットボクシングを始め、食べる物もある程度気を使うようになった。健康な体を維持するための時間がどんどん増えていく。

彼女と2人で過ごすための時間が増えた。今後の生活をするにあたっての準備とかで時間が必要になっている。

 

選ばないといけない時に来てるのかなと思ったりする。

いや、どんな時期だろうと選ぶことはあった気がするけれど。ちゃんと意識して選ばないといけないような感じ。

全部はできない。

スマホぽちぽちで疲れをマスキングすることも、人に会って話をするのも、フィットボクシングをするのも、ゲームをするのも、彼女との時間を作るのも、全てやるのは、少なくとも俺には無理っぽいと33歳にして思い始めた。

でもどこかでやっぱやりたいと諦めきれないところがあって、先延ばしになってしまう。いつかは完全に諦めることができるのだろうか。

 

別れるご縁を頂くということ

婚活をしていると「ご縁」という言葉をよく聞くことになる。

誰かと上手くいけば「ご縁があったんですね」、ダメだったら「ご縁がなかったんですよ」って具合。

上手くいっているときはいい。「よかったよかった、これもご縁だね!」って素直に思える。けれど別れたときに「ご縁がなかったんですよ」と言われるのはなんかもやもやする。

「あれがダメだったかこれがダメだったかって落ち込んでるときに、運命論みたいなスピリチュアル持ち出すんじゃねーー!!!!糞!!!」って感じ。

その点で言えば、仏教徒ちゃんに言われた(ような?)「別れるご縁を頂いた!おめでとう!!」って言葉のほうがスッと腹落ちする感覚でこっちのほうが好きだなと思う。

ご縁が「なかった」って言われると、そこでもう終わりみたいな気分になる。これはもう終わりです!ちゃんちゃん! 反対に別れるご縁を「頂いた」と言われると、頂いたご縁なのでお好きに処理してください。ゴミにするのも美味しく調理するのもあなた次第ですって気分になる。言葉の違いだけではあるんだけど、ご縁がなかったですちゃんちゃんより、もらったんで好きにしてくださいの方がなんか燃えるだろ。料理で例えるなら「ほら、今ここにある食材だけで美味い料理を作ってみなさいよ。できるもんならねw」って言われたら「できらぁ!」ってなるじゃん。なるかな…。ならないかも…。

まあ、でもやっぱり気分の問題でね。たとえ望んだご縁じゃなかったとしても、望んだものでないからこそ頂いたご縁をこねくり回して、いい感じにしてみようって気分になるなーと考えたところだった。

 

と、いうところで終わっておけば上手くまとまったように思えたのだが、俺はとかく逆張り気質なのでこう考える。じゃあ、身近な誰かが亡くなるとか、自分が病気に苦しむようなことも一種のご縁なわけだけど、そんなときに「ご縁があってよかったね」なんて思えるわけ?

まあー…、そんなわけないよね。

ここまでじゃなくても、嫌な人と出会った、人に振られた、嫌われた、誤解された、失敗した。そういうご縁もそこら中で発生するわけで、一度二度ならまだしも、それが続くようなときに、経験する機会を頂けたなんてそうそう思えないだろう。そんなものは頂きたくなかったと思うことも多い。

それでも、そういう捉え方があると知っているだけでも、何かしら違った気持ちになることもあるかもしれない。好き嫌いは別として、とりあえず縁は縁として受け取っとけって感じかな。

願い事なしコンプレックス?

願い事とか将来設計とか人生の目標ないのって、自分の中で案外コンプレックスなのかも?って話。

せっかく七夕なのだから何かお願い事でもツイートしようかと思い立ち、ツイッターを開くが、頭に浮かぶのは「平和でありますように」とか「みんなが健康でありますように」とかそんなことばかりしか浮かばなかった。別にこういうお願いは嘘ではない。しかし、ではそれが本当に心の底から浮かび上がる絶対的なお願いかと言われれば、そんな気持ちでもない。あえて言うなら社交辞令を言う時の気持ちに近い。別に嘘をついてるわけじゃないけど、本気で思ってるわけでもないよみたいな。もちろん大切な人が病気で本当に心の底から「その人が」健康になるようにってお願いする人はいると思うんだけど、私の場合は「ふわっと、とりあえず」皆が健康にみたいな感じで、人に言いやすいパブリックなお願い事と言ってもいいかもしれない。

私としては、パブリックなお願い事ってなんか面白くないというか、社会の仮面を被って言ってるような気がしてて、もっと自分の欲求を反映したようなパーソナルなお願い事が思いつけばいいのにと思ったりする。

以前どこかで、お願い事というのはそれが叶うかどうかというのはあまり重要ではなくて、むしろ自分のお願いしたいこと、欲求は何なのかを問うことが重要なんだと聞いたた。自分のやりたいこと、実現したいこと、望んでいること。それらは日々を忙しく過ごすうちに案外忘れていくもので、七夕とか正月とかに改めて自分に問うことが重要なんだと。

そう考えると、私は自分の欲望がうまく見えていないのだろうなと感じる。昔から何がしたいのとか何が好きなのという言葉にはしばしば戸惑う人間だった。大人になるにつれ、とりあえずそれっぽい答えを用意しておくようになったが、な~んか違うんだよなってよく思う。

七夕のお願い事もさんざん悩んだ挙句、世界平和とか皆が健康にとか書いて吊るしていた。もちろん、その時々で神頼みしてもいいようなイベントはいくつかあったけど(受験とか、試験とか)、そういうのは「神頼みするようなもんじゃないしな」とお願い事で書くことはあまりなかったように思う。結局自分でどうにかしていくものは自分でどうにかするしかないし、自分でどうにもできないところをお願いするって考えると「みんなが幸せに」みたいなパブリックなお願い事しか思い浮かばないことがほとんどだった。

 

実際今でも、いわゆる目標とか将来設計とか正直無いんだよな。

就活の質問じゃないけど、「5年後10年後どうなりたい?」って聞かれても「知らん。生きてんじゃないの」と言いたくなる。「どうなりたい」に対して「知らん」だとそもそも回答になってない気もするんだけど、でもこれが俺の偽らざる本音という気がする。未来のことなんぞ知らん。気が向けば向く方に行くだけ。

将来設計とか就活対策で出すだけで、みんなそんなもんなんじゃないの?と自分では思っていたのだが、以前とある集まりで、えらく将来設計が明確な人がいた。「○○歳までにこうなっときたいから、それまでに○○の資格取って、○○歳で仕事辞めたら次はこれやってみたい」みたいな人。なるほど世間にはこんな風に人生設計を立てて、目標に向かって進む人が本当にいるのだなーと、伝説の生物を実際に見るような気持だった。

この人の話を聞いて思い出したのが就活の時にとある企業の人が言っていた言葉「俺は夢を持ってない奴はクズだと思っているから」

今思い返しても「こいつの下で働きたくねーな」というのが第一の感想。だけれど、なぜだか未だにこの言葉だけ覚えている。それだけ強く残っているのは、案外そういうのが大事と心のどこかでは思っているからなのかもしれない。

何ができて、何ができないのか、何ができるようになりたいのか、何をやりたいのか。

その辺がわかっていないのが割とコンプレックスみたいになっているのかもしれないなーと考えた日であった。