沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

別れるご縁を頂くということ

婚活をしていると「ご縁」という言葉をよく聞くことになる。

誰かと上手くいけば「ご縁があったんですね」、ダメだったら「ご縁がなかったんですよ」って具合。

上手くいっているときはいい。「よかったよかった、これもご縁だね!」って素直に思える。けれど別れたときに「ご縁がなかったんですよ」と言われるのはなんかもやもやする。

「あれがダメだったかこれがダメだったかって落ち込んでるときに、運命論みたいなスピリチュアル持ち出すんじゃねーー!!!!糞!!!」って感じ。

その点で言えば、仏教徒ちゃんに言われた(ような?)「別れるご縁を頂いた!おめでとう!!」って言葉のほうがスッと腹落ちする感覚でこっちのほうが好きだなと思う。

ご縁が「なかった」って言われると、そこでもう終わりみたいな気分になる。これはもう終わりです!ちゃんちゃん! 反対に別れるご縁を「頂いた」と言われると、頂いたご縁なのでお好きに処理してください。ゴミにするのも美味しく調理するのもあなた次第ですって気分になる。言葉の違いだけではあるんだけど、ご縁がなかったですちゃんちゃんより、もらったんで好きにしてくださいの方がなんか燃えるだろ。料理で例えるなら「ほら、今ここにある食材だけで美味い料理を作ってみなさいよ。できるもんならねw」って言われたら「できらぁ!」ってなるじゃん。なるかな…。ならないかも…。

まあ、でもやっぱり気分の問題でね。たとえ望んだご縁じゃなかったとしても、望んだものでないからこそ頂いたご縁をこねくり回して、いい感じにしてみようって気分になるなーと考えたところだった。

 

と、いうところで終わっておけば上手くまとまったように思えたのだが、俺はとかく逆張り気質なのでこう考える。じゃあ、身近な誰かが亡くなるとか、自分が病気に苦しむようなことも一種のご縁なわけだけど、そんなときに「ご縁があってよかったね」なんて思えるわけ?

まあー…、そんなわけないよね。

ここまでじゃなくても、嫌な人と出会った、人に振られた、嫌われた、誤解された、失敗した。そういうご縁もそこら中で発生するわけで、一度二度ならまだしも、それが続くようなときに、経験する機会を頂けたなんてそうそう思えないだろう。そんなものは頂きたくなかったと思うことも多い。

それでも、そういう捉え方があると知っているだけでも、何かしら違った気持ちになることもあるかもしれない。好き嫌いは別として、とりあえず縁は縁として受け取っとけって感じかな。

願い事なしコンプレックス?

願い事とか将来設計とか人生の目標ないのって、自分の中で案外コンプレックスなのかも?って話。

せっかく七夕なのだから何かお願い事でもツイートしようかと思い立ち、ツイッターを開くが、頭に浮かぶのは「平和でありますように」とか「みんなが健康でありますように」とかそんなことばかりしか浮かばなかった。別にこういうお願いは嘘ではない。しかし、ではそれが本当に心の底から浮かび上がる絶対的なお願いかと言われれば、そんな気持ちでもない。あえて言うなら社交辞令を言う時の気持ちに近い。別に嘘をついてるわけじゃないけど、本気で思ってるわけでもないよみたいな。もちろん大切な人が病気で本当に心の底から「その人が」健康になるようにってお願いする人はいると思うんだけど、私の場合は「ふわっと、とりあえず」皆が健康にみたいな感じで、人に言いやすいパブリックなお願い事と言ってもいいかもしれない。

私としては、パブリックなお願い事ってなんか面白くないというか、社会の仮面を被って言ってるような気がしてて、もっと自分の欲求を反映したようなパーソナルなお願い事が思いつけばいいのにと思ったりする。

以前どこかで、お願い事というのはそれが叶うかどうかというのはあまり重要ではなくて、むしろ自分のお願いしたいこと、欲求は何なのかを問うことが重要なんだと聞いたた。自分のやりたいこと、実現したいこと、望んでいること。それらは日々を忙しく過ごすうちに案外忘れていくもので、七夕とか正月とかに改めて自分に問うことが重要なんだと。

そう考えると、私は自分の欲望がうまく見えていないのだろうなと感じる。昔から何がしたいのとか何が好きなのという言葉にはしばしば戸惑う人間だった。大人になるにつれ、とりあえずそれっぽい答えを用意しておくようになったが、な~んか違うんだよなってよく思う。

七夕のお願い事もさんざん悩んだ挙句、世界平和とか皆が健康にとか書いて吊るしていた。もちろん、その時々で神頼みしてもいいようなイベントはいくつかあったけど(受験とか、試験とか)、そういうのは「神頼みするようなもんじゃないしな」とお願い事で書くことはあまりなかったように思う。結局自分でどうにかしていくものは自分でどうにかするしかないし、自分でどうにもできないところをお願いするって考えると「みんなが幸せに」みたいなパブリックなお願い事しか思い浮かばないことがほとんどだった。

 

実際今でも、いわゆる目標とか将来設計とか正直無いんだよな。

就活の質問じゃないけど、「5年後10年後どうなりたい?」って聞かれても「知らん。生きてんじゃないの」と言いたくなる。「どうなりたい」に対して「知らん」だとそもそも回答になってない気もするんだけど、でもこれが俺の偽らざる本音という気がする。未来のことなんぞ知らん。気が向けば向く方に行くだけ。

将来設計とか就活対策で出すだけで、みんなそんなもんなんじゃないの?と自分では思っていたのだが、以前とある集まりで、えらく将来設計が明確な人がいた。「○○歳までにこうなっときたいから、それまでに○○の資格取って、○○歳で仕事辞めたら次はこれやってみたい」みたいな人。なるほど世間にはこんな風に人生設計を立てて、目標に向かって進む人が本当にいるのだなーと、伝説の生物を実際に見るような気持だった。

この人の話を聞いて思い出したのが就活の時にとある企業の人が言っていた言葉「俺は夢を持ってない奴はクズだと思っているから」

今思い返しても「こいつの下で働きたくねーな」というのが第一の感想。だけれど、なぜだか未だにこの言葉だけ覚えている。それだけ強く残っているのは、案外そういうのが大事と心のどこかでは思っているからなのかもしれない。

何ができて、何ができないのか、何ができるようになりたいのか、何をやりたいのか。

その辺がわかっていないのが割とコンプレックスみたいになっているのかもしれないなーと考えた日であった。

 

 

志摩スペイン村へ行ってきた話

昨今ネットの一部で話題の志摩スペイン村へ行ってきた。

にじさんじの周防サンゴさんの紹介動画でバズってたのを見たときから、いつか行ってみてーなーと思っていた。誰かが楽しそうにしているのを見ると自分もやったり行ったりしてみたくなるのが人情ってもので、私もそんなミーハーオタクの一人だったわけです。

が、思った以上に行くのに時間がかかりそうで1年くらい温めていたのだが、先日改めてにじさんじコラボ期間があったので、いざ聖地巡礼に赴くことにしたのだった。

 

youtu.be

有名なやつ。

自分が行った後に聞くと、さすが魅力を見つけて伝えるのが上手いな…と感心した。

この人が見たものと同じものを見ても、こんな面白い視点で見れないし、ここまで楽しそうに伝えるのも難しいわ。

 

今回は志摩スペイン村の隣にあるオフィシャルホテルにも1泊してみることにした。1人での宿泊となるが、素泊まりプランで事前に自分で予約すればレストランも問題なく利用可能みたいだったので、ボッチ参戦にも結構優しいホテルだった。もっとも、レストランを予約しようとしたらすでに満席だったので、結局朝食も夕食もバイキングになってしまったのだが…。

 

今まで伊勢志摩の方は行ったことがなかったため、道中の風景も楽しみつつのんびりとスペイン村に向かった。朝の7時過ぎに出て、ホテルについたのは10時前だった。本当はもう少し早く来て人の少ないうちに写真とかを撮ろうと思ったのだが、色々やっていたら出発が遅れてしまった。なお、今回は金、土の2日間スペイン村に入場したが、金曜日は修学旅行の学生、土曜日は家族連れとかで思っていたより人がいた。人気アトラクションとかは待ち時間も30分とかあったりして、「いつも人がいないテーマパーク」はもう過去のことなんじゃないだろうかと感じた。

 

ホテルに着くと2DAYパスポートを受付で購入する。通常7,200円のパスポートが宿泊者であれば3,800円となかなかの割引で大変助かる。

ホテルの中には、夜にはライトがついてハイパー素敵空間となる。まだ夜は肌寒い気候だったが、もう少し暖かければずっと中庭にいたくなる雰囲気があった。

 

花がそこかしこに飾られていて、ついカメラを撮りたくなる。

 

 

パレード見やすい

これまではテーマパーク行ってもパレードなんて全く見る気が起きなかったが、「まあ、はるばる来たんだし」ともったいない精神で見てみることにした。客入りが多い日だったと思うけれど、それでも人が多すぎてパレードが見れないってことはなく、場所を選べばまじかで見ることができる。なんだかんだ言っても、キャストや周りがみんな楽しそうにしていると自分も楽しい気分になってくるものだ。あと、キャストのファンサービスがすごく多いように感じた(ほかのパレード見たことないけど)。観客の近くまで来て手を振ってくれたり、ハイタッチしてくれたり。総じて、小規模だけど周りも巻き込んだ観客密着型と言えるような楽しさがあった。

パレードの様子

名前忘れちゃった…。なんかすごいインパクトのある見た目だからつい撮ってしまった。

あと、パレードではないけどキャラクターショーもすごくノリがよくて面白かった。着ぐるみのキャラクターもぬるぬる踊ってて、意外と動きやすいものなのかもしれない。

写真や動画とってなかったので、誰かのツイッターの投稿を置いておく。個人的にダルシネアの歌声がえぐくてリピートして聞いている。

 

フラメンコよかった

志摩スペイン村ではフラメンコショーをやっている。

フラメンコギターを持ってる身として、スペイン村のフラメンコとはどんな感じか気になって観てきた。

真っ暗な会場の中で、ライトに照らされてダンサーたちが舞い踊る。足技から出る迫力のある音、布をたなびかせ回る優雅さ、ダンサーたちの力強いダンス。観ていてとても面白く、気分が高揚した。以前に徳永兄弟のフラメンコライブを観たことがあるが、それとは方向性が違って面白かった。スペイン村のフラメンコはどちらかというと「ショー」の要素が強いように感じた。ダンスに焦点を当てて、分かりにくい歌などの要素は削った感じ。

個人的に残念だったのがギターは(恐らく)録音だったこと。そっちメインで行こうとすると少し残念かもしれない。

最後はキャストの方の撮影会が写真を撮れた。

 

絶叫系が思ってたより乗れた

今までは絶叫系とかには乗れない人間だったけど、ある程度は乗れるようになりたいなーと思っていたので、ジェットコースター系にも乗ってみた。やはり落下する前は腹がキューっとなって怖い。しかし、始まってしまうと意外と楽しく乗れていることに気づく。コツは進行方向をちゃんと見て、次の動きに備えておくこと。あと気分として、戦闘機に乗ってるイメージを持つとグルングルンするのも結構楽しめる。エースコンバットの動きをリアルでやってるみたいな感じ!

かの有名なピレネー。吊り下げ式のコースターで足がプラプラした状態で乗る。空飛んでる感覚で結構楽しい。結局、滞在中に3回乗っていた。乗り終わったときに足がふらふらしてんのも面白いんだよな。本当は2日目は何回乗れるか耐久しようかとも思ってたんだけど、ほかに行きたいところもあったし、人も多かったしで3回で止めておいた。

 

その他思い出したところ


ホテルの中庭とは別に廊下の途中に空間があって、花でいっぱいになった噴水があった。ここはほとんど人がいなくて、夜に一人でお酒飲んだ時は、静かな中に水の流れる音だけが流れてて、体全体がとてもリラックスできて最高だった。

 

夜の中庭。照明もきれいで、そんなに大きくないけどついつい散策したくなる魅力があった。何気に草がハート形になってて、カップルとかにちょうどよさそう。

 

ホテル関連でいうと、食事の時が恐ろしくいたたまれなかったのを思い出した。

夕飯、朝食と大広間でバイキングだったんだけど、席はすべて円卓で4,5人は座れそうなものだった。残念ながら一人用テーブルなんて気の利いたものはないのである。それでも、会場に行く前は一人客くらい何人かいるだろうと思っていた。しかし、1人でいる人なんて見渡す限りだーれもいなかったのである。みんな2人以上で一緒にテーブル囲んでる中、広いテーブルに1人だけってのはなかなか気後れするものがあったわ。

俺もたいがい1人○○は慣れた気でいたけど、こうも1つの会場に1人でいるのは自分だけってのが可視化されるとなんだかんだと気になりますわ。

 

思いのほか感動したのが、このアルタミラ洞窟の壁画のレプリカを見れたところ。レプリカはスペイン以外では志摩スペイン村でしか見ることができないもので、何気に貴重なものだった。洞窟の天井にこんな感じで動物の絵が描かれていて、かなり迫力があり、目が吸い込まれるようだった。どうしてこの絵を描いたんだろうって旧石器時代の人につい思いを馳せてしまう魅力があった。

 

そんなこんなで、一部いたたまれない気持ちになったが、全体的に面白い体験ができた。志摩スペイン村は、割とコンパクトにまとまって遊びやすいし、綺麗な場所も多いしで楽しい気分で回れる。また機会があれば行ってみたい。

名物のオレンジケーキ。程よく酸味があっておいしい。

春と夜更かし

ようやく春うららかな季節になってきたと朝飯食べながら感じる。暖房をつけずとも部屋は暖かく、上着を羽織ることもない。

冬はあまり好きではない。メンタルが落ちる。寒さで気持ちが塞ぎ込むのは誰でもあるだろうけれど、この頃は特に冬季うつってやつなんじゃないかって思うほどやる気が減退していた。昔は汗っかきで夏の方が暑くて苦手だったのに、最近は夏の方がいいな〜って思うのは代謝が弱くなったからだろうか。

メンタル安定させるには暖かさとご飯と睡眠が大事だよな〜と思ってはいるけれど、今は特に睡眠がやばい。ここ最近は毎日4、5時間しか眠れていない。「寝たら明日が来るから眠れない」ってどうすれば解決するんだろうね…。寝なくたって明日は来るよっていうのは頭では分かってるんだけど、どうしても「まだ12時か…、まだいけるな」「1時か…、布団直行ですぐ寝れば6時間くらい寝れるな」「2時か…、流石にやばいが、ギリギリまで寝れば5時間寝れるからもうちょい…」となってしまう。ようやく布団に入っても、スマホをだらだら触って眠れないから子守唄がわりに音楽かけて無理やり目を閉じる。翌日(というか今日)は聞き慣れた目覚ましの音に起こされ、もっと寝ていたい衝動を抑えてシャワーを浴び、ギリギリになって家を出る。

睡眠不足がメンタルにも体にも多大な影響与えてるのは明らかなんだが、なかなか改善できない。なんでこんなに夜更かしって楽しいんだろう。というか楽しいのか? よくよく思い返してみると、別に楽しいから夜中まで起きてるわけじゃないな。なんかゲームしてたらいつの間にか夜中になっているのである。いや時間は確認しているんだ。「ああ5時か、これやったら飯食わねえと(食わない)「もう8時じゃん、もう少しやったら風呂入らないと(入らない)」って感じで、もう後これだけしたらって思ってると数時間たってんだよな。不思議!

これ改善するために、1日にやることでスケジュール組んで毎回通知が出るようにしたこともあったんだけど、しばらくやったら通知来ても無視しはじめて結局続かなかったことがあったなって今思い出した。

「あとちょっと…」の気持ちってどうやれば切れるんだろうねと思ったところで今日は終わり。

仏教徒ちゃんとご飯食べた話

この一連の日記ポストで彼女と別れたことを書いたら、仏教徒ちゃんこと遊民さんが食事に誘ってくれた。

前回の座禅会の時に、彼女ができたことを少々いじられ(祝福され)たことがあり、そのうえで別れたと聞いて少しばかり責任を感じていたらしい。私としては別に気にしていなかったが、ちょうど誰かに話を聞いてもらいたいタイミングだったので、渡りに船でありがたく誘いに乗らせてもらった。

普段あまりこういうことは人に相談しないのだが、リアルの人から第三者的な意見をもらえて、かなりエネルギーをもらえたように思う。人とサシ飲みすることなんて人生で数えるほどしかなかったので、少々緊張していたが、遊民さんが色々と話を掘ってくれて色々話ができた。

自分で思っていた以上に書き留めておきたいことが出てきたので、久しぶりにブログに書き残してみよう。正直自分の恥部をさらしているようで恥ずかしいところもあるが、まあそういうのもたまにはいいだろう。

 

席についてとりあえず乾杯した後、「おめでとう!」と遊民さんは言った。

「おめでとうなんすかw…?」

あまり想定していなかった言葉に思わず苦笑する。

なんでも、彼女と上手くいっても別れてもどっちにしろ「おめでとう」になるらしい。上手くいけばそのままおめでとうだし、上手くいかなくても今みたいに他の人との縁が強くなるからみたいなことらしい?(この辺曖昧だったんで勘違いだったら申し訳ない)

実際、今回のことがなければこういう話をする機会もなかったと思うので、確かに遊民さんとの縁を深める機会を彼女からいただいたという見方もできるかもしれない。

 

そのあと、ツイッターで書いていた内容の話に移った。

この一連のポスト

 

自分で書いてた日記みたいなのをとっかかりにして話をしてくれるのめちゃくちゃ助かった。共通のコンテンツから話ができるからかなり話しやすかった。「さびしい夜にはペンを持て」に影響されて試しに書いてみたものだったが、今後も定期的に書いてみると面白いかもしれない。

 

そんなわけで、ポストの内容について話していた中で印象に残ったのが、君は他人に興味ないんだよって言われると心がざわつくってところを遊民さんが上手く言語化してくれたことだった。

自分としてはこの言葉を言われると、まあ間違ってはないのかなって思ってた

話の中で、子供の頃はどんな感じだったのかと聞かれた。小中高とか女の子に興味はなかったの?

学生時代を思い出す。そういうわけじゃなかった。人並みに興味はあったと思うし、気になる人だっていた。しかしまあ、当時は今の数十倍ひねくれていたから、自分なんかに好かれても迷惑なだけだろうとかなり強烈に信じていた。だからまあ、気になる人がいてもアプローチとか考える前に、何もしないって選択をしてきた。

遊民さんが言う。そういう色々な葛藤とか過去の経過とかがあって、今のこの状態があるってことを言ってもらえればいいんだけど、今の結果だけを見て、「他人に興味ない」って評価を下されるからざわざわするんじゃない?

ああ、そうだなと、スッと合点がいった。今の状態に至るまでの流れを聞くのでもなく、今の結果だけを見て、まるで評価を下されるみたいに「他人に興味ないんだ」と言われるのが嫌だったのか。

そんなことにようやく気付けたのだった。霧がようやく晴れた気分。これに関しては人に興味ないってところは正しいのかもしれないと思ってたから、そのジャッジのプロセスに納得いってないってことが分かってよかった。

 

あと良かったこととして、「人間に擬態するの大変っすね」って言って、共感してもらえたように感じられたこと。

「人間に擬態」ってワードを出すと、今までリアルで出会った人は「どうした? 大丈夫か?」と心配するか、「どしたんすかw? なんか悩みでもあるんすかw?」と単芝生やして半笑いしてくるか、ハア???となるか、その辺だと思ってる。

だから、あんまりリアルでこういう言い回しはしないようにしてる。しかし、今回は婚活で女性と知り合うときに義務みたいな質問するのマジきついってところでお互いに共感できて、盛り上がった流れで、ふと「人間に擬態するの大変」って話をしていた。

遊民さんは「あ!、そうだね!」と返した。

何というか、ほっとした。外国で日本語が通じる人を見つけたようなそんな感じ。「人間に擬態」って言葉が同じ言語として通じ合ったように思えた。

普通に女性と知り合って、普通に何か質問し合って、共通点見つけて、交際して、結婚してって一般人の流れが、どうも無理そう!ってなった同士で同じ言語で話せたような安心感があった。

ああ、俺はこういう風に共感してもらいたかったんだな。心配も笑いも疑問もなく、「だよなー」と言ってほしかったんだなと気づけた。

 

そのほか、別れた人と面白いってことを結局共有できてなかったな~とも感じた。相手の面白いと思うことも最後まで分からなかったし、自分が面白いと思うこともできなかった。なので、遅かれ早かれ別れてはいたんだろうなと思う。相手も自分も面白いと思うものをどうすれば共有できるのかよく分かっていなかった。そういうところで共感しあえるかと思っていたけど、結局コミュ障とコミュ障がぶつかり合って対消滅しただけだったな。

 

遊民さんに言われて、俺はどんなことに幸せを感じるんだろうと改めて考えてみる。例えば、旅行に行った街中でいい感じの路地裏を見つけたとき。池島に行ったときはマジでテンション上がったなー。

参考記事

numamemo.hatenablog.jp

 

例えば、仕事で使うエクセルファイルをいじって、いい感じに新しい関数を使えた時。

 

…人と共有しづれ~

 

そういう楽しみを上手く人と共有できればいいのかもしれないけど、なかなか難しいですね。この辺はまたぼちぼち要調整かな。

 

最後に、遊民さんからブログとかツイッターのことを結構良く言ってもらえて恥ずかしいやら嬉しいやらであった。人に感想言ってもらえるとめちゃくちゃモチベが上がる。結婚的な話も、最初にブログから入ってもらって、興味持ってくれた人と仲を深めてった方がいいんじゃないかとアドバイスをもらった。逆に、リアルで会った後にブログを教えるのはNGだそうだ(実際にやってた)。俺のことを一般の人間だと思ってた人があれを見たら当然引くらしい……。

まあそれはそれとして、友人からもブログから入るルートをおすすめされていたので、もうちょっとブログを定期的に書いていこうかなと思った。今までは書きたいときに書きたいようにと思って最近は更新もしないでいたけど、もうちょっと負荷かけて「育てていく」イメージでやってみようかと思う。

遊民さんの野望としては、座禅のことを定期的に書いてもらえると励みになるってことだったので、やれる範囲で書いていければいいな。

 

そんなこんなでたっぷりと話をして最後に「ご愁傷様」で別れたのだった。

書くことと私

この度、リアルの人に自分のブログを教えるという経験をした。

感想として印象的だったのが、「ちゃんと人間ぽかった」という言葉。

 

ふと、高校の時を思い出した。

「何を考えているかわからない」と今まで度々言われてきた。

「君はどう思う?」って何か聞かれて、自分なりに答えたんだけど「それは一般的な考えでしょ、君がどう思ってるのかを聞きたいの」って言われた思い出がある。具体的にどういう話をしてたのかはもう忘れてしまったけど、返答に困った印象だけが頭にこびりついている。

 

私は何事もパッと答えられない。

根本的に記憶力がないのか、記憶を引き出す力が弱いのか、とにかく頭の引き出しの中からパッと言葉を出して話すのが難しい。

好きな料理や食べ物という簡単な話でさえ、改めて聞かれると「うーん、何なんだろう…」とうまく言葉が紡げない。大体はハンバーグとかカレーとか「嘘では決してないんだけど、それが完璧な正解かと言われると疑問がつく」みたいな回答をしてしまう。いやそもそも別に完璧な正解なんて求められてなくて、ただ話のタネにしたいだけなんだから、そんなのパッと思い浮かんだやつ言っておけばそれでいいとはわかってるんだけど、こう、どうしても性なのか「自分自身も深く納得するような回答」を探しちゃうんだよね。

何か質問を受け付けると、頭の中で自動的に反証を始めてしまうような気がする。「ハンバーグが好きって言ってるけど、どんな具材を使っててもそう言えるの?」とか「もうお腹がはちきれそうになっていてもハンバーグを食べたいと思うの?」とかとかとか…。

私の頭もそんなに高性能ではないので、無限に現れる反証に処理能力が奪われて、いよいよ何もしゃべれなくなる。

 

そういった場面を離れて、ぼーっとテレビ見てたり、ネットの情報を浸かってたりする時にふと、「あ、こういうのいいな」って納得する回答が出てきたりする。

こういう納得した回答が出てきたときは、何かしらメモったりして、さらに興が乗ったときはブログに書いたりする。

そんなわけで、自分の納得できるような言葉はブログに多い。書くことで私が形作られていくような感じ。もちろんそれだけが私の全部ではないけどね。

このブログは自分の説明書になるようにという目的もあるため、ある程度その方向では成功しているのかもしれない。今後はもう少し素朴なこと(好きなところや行きたいところとか)について、自分の納得する答えを書ければいいかなーとか考えている。

 

リビングのマットが直せない

リビングにマットが敷いてある。ニトリで買った正方形のマットをいくつもつないで1枚のマットにするやつ。それがグチャグチャになっている。

 

www.nitori-net.jp

こんなやつ。

 

何年か使っているうちにジョイント部分がへたって、うまく繋がらずグチャグチャになってしまい、そこここにフローリングが丸見えになっている。グチャグチャになっているのに直せない。

グチャグチャのマットは椅子を動かすたびに引っかかる。邪魔だな…って思いながら椅子を直して、マットはそのまま。新しいものに換えれば綺麗になるのにと話す天使を、惰性の岩で押しつぶす。どうせ直したってまたグチャグチャになるんだから。

 

グチャグチャから目をそらすようにiPadYouTubeを開く。ホームに出てきた動画を見る。Vtuberの切り抜きを見たり、アニメを見たり、音楽を聞いたり。1時間くらいそうしていたらもうマットのことなんて忘れてる。見えているはずが見えないようになっている。

適当に動画を見てると色々な「やらないとな…」が忘れ去られていく。グチャグチャのマットも、かごに積もった洗濯物の山も、油で汚れたキッチンも、とっくに必要なくなった書類で埋もれた机も。

一通り忘れてしまえばもう明日が来る。「やらないと…」を明日に持ち越しながらずっと暮らしている。

 

いいじゃないか。どうせ困るのは私しかいないんだから。私が許容できる範囲で部屋が汚れるのはなんの問題もないはずだろう。

そう、問題ないはずなのに私はこれを書いている。このグチャグチャのマットのことを書いておきたいと思っている。それはやっぱり心のどこかでマットのことが引っかかっているのだろうと思う。

今日は帰ってから動画を開かず、これを書いてみた。動画を見るというルーティンが崩れたからか、みぞおちのあたりがどーんと沈んでいるような気持ち悪さがある。単に腹が減っている可能性もあるけど、お腹が空いたー!って感じとはやっぱり少し違うように思う。この気持ち悪さは「やらないとな…」が降り積もってできてるように感じた。

今の私の家はそこら中に「やらないとな…」が降り積もってて、動画を見て一息つかないとやってられないんじゃないだろうか。それならこれはお酒を飲んで気持ちを紛らわすのとほとんど違いがないな。

とはいえ、そう考えたからって、じゃあすぐに積もり積もったやらないといけないことを解消できるんかっていうと、そう簡単に体は動いてくれないようで。とりあえず、もう完全に使えないようなマットは今ゴミ箱に捨てたけど、それは結局「マットを何とかしないと」が「ゴミ捨てに行かないと…」に変わっただけなんだから、なんか元の木阿弥って感じ。

やっぱりなんか、「やらないとな…」って面白くないんだよな。もっとなんかこう、自分を駆動させる面白さが欲しいなーなんて思いながら、収集つかなくなってきたので、ここらで閉じよう。そうして私はYouTubeを開くのだった。