沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

ネカフェいいわ~

ネカフェで勉強が捗るぞという話。

 

とある資格試験まで残り2週間を切った。過去問を手に入れてから4ヶ月くらいあったけど、それまでにやったことといえば最初の方に過去問をちょっとだけやって、そのまま積読になっていた…。

思えば学生の時から、試験と呼ばれるものに対して、自宅で勉強することができない人間だった。当時も図書室に行ったり、学校に居残ったりして勉強してみることもあったが、静かなところでやってるといつの間にか寝てるんだよな。人間、寝たいときには寝るんだよ!

そんなわけで、今現在も授業とか研修とか何かしらの強制力がない限りは勉強ができないままに来てしまった。

 

今までは自分で資格試験受けることなんてなかったし、社会人になってからそんなに困ってなかったんだけど、今回はそうもいかない。

今度受けるのは会社から金を出してもらって受けるやつなので、結果報告せにゃいかんし、うちの部署の先輩はみんな受かっているみたいだから、これで落ちたらさすがに恥ずかしい…。

そんなに難しい試験ではないとはいえ、さすがにノー勉では無理なので、1ヶ月くらい前から過去問を開いてはみるも、気づいたら動画見てたり、ギター触ったり、本を読んだりしてた!

 

…私はここに宣言する。

私は自宅では勉強ができない!

生まれて30年でようやく勉強ができない自分を諦めきった!

 

自宅でできないならどうするのかは決まっている。課金して環境を作ればいい。

というわけで、自宅以外で勉強をする場所をざっと考えた。当初はビジネスホテルに泊まる計画を立てたが、土日空いてるビジネスホテルが意外と無いし、あっても2万とかする場合もあり、課金するといっても流石に…って感じだった。

では、喫茶店はどうかと試してみた。悪くはないが、飲み物1杯では案外すぐに飲みきってしまい、何もない状態で勉強だけやってるのが何か悪い気がして、自分としては微妙だった。もっと自分のペースで好きに飲めるようにしたい。

フリードリンクである程度だらだらできて静かすぎないところ…と探していたら、ネカフェがいいらしいという情報があった。ちょうど近くに快活CLUBというネカフェがあったので、行ってみたらめちゃくちゃ良かった。

 

■いいところ

・雑音がある

個人的にある程度環境音があったほうが好きなタイプなので、ざわざわしているくらいがいい。ただし、たまーにものを落とす音が響いたり、夜間はいびきがうるさい人もいるので、イヤホンは必要になる。

 

・漫画、雑誌読み放題

もう今日は勉強無理だーってなったらすぐに漫画を読める。各種電子書籍サービスもあるので、見たければいくらでも見れる。当然そればっかりになったらいかんが、私の場合はあまり漫画読もうという気にならないため問題なかった。

 

・飲み物、食べ物がある

ジュース、スープは飲み放題。食事も有料だが頼めば席まで持ってきてくれる。意外と味も悪くなかったので、財布に余裕があればずっとそこで暮らせる感じ。持ち込みも大丈夫なので、節約するなら弁当を持ってくるのが正解か。

 

・疲れたら寝られる

カフェスペースだと無理だが、ブース内であれば普通に寝られる。

人間、寝たいときには寝るんだよ!

 

・外に出られる

ご飯を食べて眠い~って時はちょっと外に出てスロージョギングしていた。精算しなければブースはそのままにしておけるので、ちょっと外に出て戻るのも問題ない。シャワーも無料で使えるので、準備さえしていれば少しばかり汗をかいても大丈夫そう。

 

■悪いところ

・ノートとか書き物するには椅子、机が不向きかも

ブースによるかもしれないが、椅子はくつろぐ用のものに思え、集中して物を書くには不向きに感じた。フラットマットのブースであれば床に座るので多少マシかもしれないが、いずれにしても人を選びそうに思える。

 

・誘惑が多い

だらだらできるのと表裏一体ではあるが、いったん娯楽にハマると抜け出せなくなるため、漫画大好きって人には合わないかもしれない。

 

色々まとめてきたけど、日曜は9時間くらい勉強できたし、今のところ一番捗った場所になった。このくらいだらだらしながら勉強するのが性にあってるような気がする。数時間だけの時はカフェスペースを使って、土日にガッツリやりたい時はブース使うのがいいかもしれない。

 

他に勉強しやすい所として、コワーキングスペースを使う案もあるが、こちらはまだ試せていないので、こちらも後日試してみたい。

 

頭の上に名前が出ればいいのに

とことあるごとに思う。

 

私は昔から名詞が出てこないことが多い。とっさに知人に話しかけようとする時。上司に何かを報告する時。誰かを紹介しようとする時。とにかく急に話しかけようとするときや何かを思い出そうとするときには名前が塗りつぶされたかのように出てこない。

早く思い出さないとと緊張するほど、どんどん思い出せなくなってくる。そのくせ、そういった状況が終わって、ハァ~ってなったときに限って出てくるのだ。どうでもいい時は何の問題もなく出てくるくせに、いざ必要になるときに限って黒塗りにされるイメージ。

 

好きな歌とかゲームとか人に話すときにふと名前が出てこないときは「名前が出てこない程度の好きなんだね…」って思われてそうで、なかなか気まずい。ちゃうねん、本当に出てこないだけで好きなんだよ。

最悪だったのは、自分の知人同士が会ってるときに、一方の知人から「紹介してよww」と言われた時に、その知人の名前が出てこなくてフリーズした自分を見て、「あ、紹介してもらえるほど仲良くなかったか…」とか言われた時。あれはまじで気まずかった。

あと、人に話すときに親の名前が出てこなかった時も普通に困る。

 

これが自分の努力不足なのか、それとも異常と判断されるレベルのものなのかは分からない。昔々に友人に相談したときは「皆そんな時はあるよ」と言われたし、神経内科の医師に相談したら「別に脳に異常はないし、ぼーっとしてただけなんじゃない?」と言われた。心配し過ぎの患者を見るときのあの医師の薄ら笑いが、いまだに忘れられない。

みんな名前を思い出すときにどうやってるんだろう。友人とか好きなアーティストとかゲームとかふとした時に名前が出てこないときにどうしてるんだろう。

 

その点、オンラインのコミュニケーションはとても助かる。少なくとも相手の名前は頭の上に表示されているから、出てこなくなっても画面を見れば問題ない。何かの名前が出てこない時でも、PCとかで適宜調べながらチャットを打てば違和感なくコミュニケーションできる。

私はネット上でしかまともにコミュニケーションできない人間…。

リアルで困るたびに頭の上に名前が出てくればいいのにと常に思う。どうせなら、テッド・チャンの「偽りのない事実、偽りのない気持ち」(「息吹」に収録)に出てくる、過去の出来事の話をすると自動的に視界に映像記録を表示する機器が欲しい。もしこんな機器が出たらまっさきに導入するだろうな。

 

話の着地点が分からなくなってきたが、まあ、そんなことを考えているという記録。

感想文 『「老人と海」読書感想文の書き方と例文』

ついさっき、「老人と海」の読書感想文を上げたんだけど、ネットで検索したら

老人と海」読書感想文の書き方と例文なるサイトがあって、こんなピンポイントの例文とかあるのかよwと笑ってしまった。

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ほかにも似たような趣旨のサイトがあったので、ざっと目を通してみた。

 

見ていて思ったこと

(学校主導の)読書感想文ってまじでクソだな!!

 

上のサイトであればこの記述がムカつく

学校主催の読書感想文は、読者のあなたに、何らかの「学びを得させるため」に本を読ませようとしているものだからです。よって「反省させられた点」「改善しようと考えさせられた点」を掲げることが、出題意図に叶った感想文の書き方になるからです。

 

何で読書して学びを得なきゃいけねーんだよ。何が反省させられただ、何が改善しようと考えさせられただ。確かに、そういう目的を持って論文とか技術本とか自己啓発本だとかを読むことはあるだろうよ。

だけど、これ小説だぞ。誰かが何かを表現したかったことをやれ学びを得ただ、反省させられただ、改善しようとだとか、しょうもなさすぎるだろ。

どうせ学びだの反省だのって言ったって、所詮現代で流行ってる思想や人間社会に適合しているものだけが良くて、そうでないものは評価されないだけなんだろ。

 

小説という誰かの表現に触れて、何かを感じたり感じなかったりするけど、そんなもん本来言葉にできないものだ。無理やり言葉にすれば今の言語の価値観の中で近似的に表現できるけど、100%そのままを言葉にすることなどできない。

それをわざわざ現代の価値観で優劣つくって、「これは良い」「これは駄目」なんてクソみたいな分別を作って評価している。

こんなもんクソでなくてなんなのか。

評価をしていただける大先生方にとって大切なのは、現代的な価値観で学んだり、向社会的な何かを得た経験なんでございましょうね。

そんなわけで、学校主導の評価されるような読書感想文何ていうのは甚だクソの極みだなと感じた次第だった。

 

念のために書いておくけど、自分が書きたくて書く感想文は好きにすればいいと思ってるからね。それがまた誰かに何かを感じさせることもありましょう。クソというのは一定の価値観の中で、感想文を評価されるようなシステムに関してなのを申し添えておく。

 

……さて、冷静になってみると、たかが一部のネット記事に触発されて、評価軸とかきちんと確かめていないことに関しても不満を言ってる気がするな。

まあ、ネットの泡沫の中の一つとしてこういうのもいいだろ。きちんとした批評はよそに任せる。

読書感想文「老人と海」

「失いながらも、誇りを受け継ぐ物語」

 

エオルゼア読書倶楽部にて同じ本を読んで感想文を書いてみようという企画があり、ヘミングウェイの「海と老人」を読んだ。

ヘミングウェイ!!

聞いたことはあるけど、著書は読んだことがない海外作家だ。

訳書がいくつかあるが、今回は光文社古典新訳文庫小川高義訳を読んだ。

 

あらすじとしては、漁師の老人サンチャゴが海で巨大なカジキを3日間かけて釣り上げるけど、沖に出すぎてせっかく釣ったカジキをサメに食べられるって話。ここだけ切り抜くとどうにも間の悪い話だな。

 

老人と海」では、単身でカジキやサメと格闘するサンチャゴの描写が殆どを占めている。サンチャゴの年齢については名言されていないが、自分は60過ぎ位を想像していた。老人が主役を張るストーリーってあまり読んだり観たことなかったなーというのが最初の感想だった。

老人って、物語の中だと主人公側の「導く者」だったり敵役の「邪魔する者」といった役割を与えられる印象が強くて、老人単体でその描写が描かれるのってあまりないイメージだった。

老人が主役というと、自分の中ではロッキー・ザ・ファイナルくらいだろうか。ロッキー・ザ・ファイナルは50代後半のロッキーが現役のボクサーに戻って、自分の寂しさ侘しさと戦い、情熱を取り戻していく話であった。老人として失っていくものがあっても、それに屈さずに闘っていく姿がサンチャゴとロッキーで重なるように思えた。

双方とも、「失っても屈さざる者」として老人が描かれているように感じる。

 

サンチャゴの胆力は凄まじいものがある。

サンチャゴも妻を亡くし、84日にも及ぶ不漁に見舞われ、年齢以上に漁師としても老いて周りから食料を恵まれているような状態だった。しかし、一度カジキが餌に食いつけばほぼ不眠不休で3日間縄を引っ張り続け、意識を朦朧とさせながらも銛でカジキを仕留める。

仕留めたときは本当に満身創痍で、縄が擦れて手のひらはズタズタ、3日間の漁で意識は途切れ途切れ。それでも「やってやろうぜ」と気合を入れ、何度も縄を引き寄せてようやく仕留めることができた。

だが、めでたしめでたしでは終わらない。カジキは巨大すぎて船に乗せることができず、横付けにして港へ戻ろうとするも、沖に出すぎてすぐには戻れない。そうこうしているうちに、血の匂いを嗅ぎつけたサメにカジキを襲われる。最初のサメには銛を取られ、棒につけたナイフで応戦するも3回目のサメにナイフを折られ、最後は棍棒や舵棒まで使って応戦する。サメに食われるたびにカジキを釣ったことを後悔しそうになるが、「だが、人間、負けるようにはできてねえ。ぶちのめされたって負けることはねえ」と奮起して、ともかく港まで戻ってくる。結局カジキは殆どを食われていた。

普通なら発狂しててもおかしくないような状況だ。実際、この話の元になった話では、カジキを食われた漁師は半狂乱で泣き叫んでいたという。しかし、サンチャゴはショックを受けてはいるだろうが、「負けてしまえば気楽なものだ」とどこか吹っ切れたような言葉が印象的だ。

 

私はこの後のサンチャゴが港へ帰ってきた後の場面が一番好きだ。

家々がまだ眠りにつく静けさの中、何度も倒れながら家に帰るサンチャゴ。骨だけになった巨大なカジキをみてサンチャゴを憐れむ漁師たち。サンチャゴと親しくしている少年マノーリンが入れてくれたコーヒー。静かな中で皆がサンチャゴを思いやっている。

マノーリンに対して、「俺には運がない。もう見放された」と一度は言うものの、マノーリンに、「まだまだ教わることはある、運なら僕のを持っていく」と奮起され、やる気を取り戻す。

あんまり「老人と海」の主題みたいなのとは離れる気がするんだけど、老人から若者に引き継がれるものみたいなのが自分は好きだ。「老人と海」ではサンチャゴは散々な目にあってるんだけど、漁師としての誇りみたいなものは持ち帰ってるような気がして、ボロボロになった手を見たマノーリンはその誇りを受け継いだような気がするんだよ。この場面を悲劇的と見るか救いがあるとみるか人それぞれだと思うんだけど、私はここに希望を見出した。誇りを受け継いだマノーリンは、この後もサンチャゴと一緒に大物を狙いに大海原へ漕ぎ出していくのだろう。

と、そんな感じで、私は「老人と海」を「失いながらも、誇りを取り戻し、受け継いでいく物語」として考えた。冒険活劇のような冒険、挫折、成長みたいなものはあまりない静かな物語だけど、どん詰りの爺さんが一世一代の大立ち回りをして、若者にその意気が伝わっていくのがとても好きになった。

読書感想文「マカン・マラン」(シリーズ読破後)

先日マカン・マランシリーズの1巻のみで感想を書いた。その後が気になり、2~4巻も全て読んだので、その感想を書いてみる。

前回はこちら

numamemo.hatenablog.jp

 

最近にしては珍しく、一気に読んだシリーズ物となった。

 

2巻の途中までは、物語の展開自体は多くの場合でそれほど変わらないと感じた。人間関係の不満、不安定な職、劣等感、そういう現代的なあれこれを抱えた人が、シャールのもとを訪れる。シャールはドラァグクイーンとなった自身の経験と、料理を使って相手に合ったアドバイスを送り、それが解決の糸口になっていく。

現代人ならどこかしら共感できる悩み。分かりやすい悪役。シャールと出逢えば必ず前向きになる主人公たち。

初めこそ、1巻と変わらない展開でやっぱりNot for meかなと思っていたが、気づいたらどんどん読み進めて、4巻まで一気に読み終えてしまった。

 

どうしてこんなにスルスル読めてしまったのだろうかと考える。

一つには、物語が進むに連れて、当初からの登場人物の深掘りや、悪役が主人公のストーリーが出てきて、変化のあるストーリーが出てきたことが挙げられる。2巻では1巻から出てきていた柳田の話やシャールの親子関係について描写されたし、3巻ではそれまでの主人公たちとは異彩を放つ、ネットの口コミでとにかく悪口を書くディスり中毒の女性が主人公の話があった。また、それまで出てきた主人公たちがその後のストーリーにも登場し、間接的に深掘りされていったりして、関係が重層的になっていくのが楽しい。ストーリーが一段落した後に主人公のその後が描かれるのが好きな人間なので、間接的にその後の物語が描写されるとぐっと引き込まれる。

 

もう一つは前回の感想文で同じことを書いたが、やはりシャールの人柄が好きなんだよな。梁に頭が付きそうなほど背の高い、優雅にして、どこか恐ろしい、女装の中年男性。この世ならざる異界の魔女。そして進行性の病を抱え、シャールとなる過程で様々なものを失ってきた1人の人間。それがシャール。

彼女が主人公たちに合わせた食事を作り、個々の苦しみに寄り添うときの言葉は、読者である自分たちにも届くところがある。

私はそのうちシャールが観音菩薩に思えてきた。特にシリーズ3巻「気まぐれな夜食カフェ マカン・マランみたび」の第三話「風と火のスープカレー」でより一層観音菩薩と重なって見えた。観音菩薩は人々の苦しみを抜くために、その人に合わせた様々な姿で現れるとされる。「風と火のスープカレー」ではクライマックスでシャールが男装し、御厨清澄(みくりや きよすみ)として主人公の前に現れる場面がある。シャールの必要とあれば男性の姿となり苦しみを抜く姿に、観音菩薩の姿が重なるように感じられた。

それに、インドでは男性の像しかなかった観音菩薩が、中国に渡る過程で女性の像が主流になってきたというのもシャールのイメージにぴったりだった。

シャールが観音菩薩とすると、マカン・マランはさしずめ観音菩薩の活躍を描いた変化譚といったところか。そう考えると当初抱いていたご都合主義とも思える都合の良い展開も読み方の問題だったように思う。マカン・マランの話は仏典に出てくるような例え話というかある種の逸話みたいなイメージで読むのがいいのだろうと感じた。

 

さて、前回の感想文の最後に、「正欲」や「聖なるズー」とのクロスオーバーを考えてみたいと書いていたので、それを再考してみよう。

「正欲」の桐生や佐々木や諸橋が、もしもシャールと出会っていたら…。シャール自身の性や親子関係を交えて、相手に寄り添おうとしてくれるかもしれない。もしかすると物語よりも早く桐生たちが安らげる場所を見つけられたかもしれない。

でもやっぱり結末は変わらないか。シャールと出会うまでもなく、特に桐生や佐々木はある意味前向きになっていた。そういう意味ではあの結末もハッピーとは言えなくともあるべき結末だったのかもしれない。諸橋についてはひたすら可愛そうだけど、シャールと会っていたところで、あの結末には干渉できないだろう。

 

 

「聖なるズー」についてはリアルの話であるので、あまりフィクションの存在を混ぜて考えるのが難しいところはあるけれど、もしズーであることに思い悩んでいる人が来たら、こう言うのかもしれない。

「生きてくのって、寂しいのよ」

「皆、寂しくて、一生懸命。それで、いいじゃない」

 

マカン・マランシリーズ、最終的にはスラスラと自分の身に染み込むような読書経験だった。今ならこれはFor meな本だったんだと思える。作者の別の本にもシャールが出てくるようなので、引き続きそちらを読んでいきたい。

理論武装する心

先日、業者が現場へ上げるはずだった荷物が倉庫にそのままになっていた。現場Aがすぐに使いたいから上げてくれというので、善意のつもりで現場へ上げた。業者が現場へ上げる予定の数は不明だったが、とりあえずものがあれば問題ないだろうと考え、他の現場と過不足あれば業者が来てから確認して調整すればいいと考えていた。

 

その後、現場Bが必要な分も現場Aに上げてたので、後で現場Aから現場Bへ物品を移すことになった。で、現場Aの職員が「自分たちがせっかく棚にセットしたのに!」といって軽くトラブルになった。

現場の職員曰く、そもそも現場に上げる数量を把握していない自分が悪いらしい。なるほど、現場に上げるのなら数量は業者に確認した上で上げたほうがいいのかもしれない。しかし同時にこうも思う。

「いや、そんなん知らんし」

そもそも業者が上げるはずだったのを、わざわざと言ったら恩着せがましいけど、わざわざ時間作って上げてるのに、数量まで正確になんて、業者がやるべき仕事を何でそこまでやってあげないといかんねん。業者に文句言えや。

 

と、まあ相反する考え方を同時にしてしばらくフリーズしてたわけでございます。

 

その後は頭の中で「俺が悪いんか?」と「俺は悪くねぇ!」の声が木霊して、色々理屈をこねくり回していた。

理屈をこねくり回せば、自分が悪いという論理立てもできるし、自分は悪くないという論理立てもできる。

ふと気づく。善悪にかかわらず、私はとにかく理論武装しようとしているな。毛を逆立てるハリネズミの如く、まるで癖のように自動的に。

 

武装した理論の奥を覗けば、自分がしたことを否定された悲しさや、経緯を聞こうともしない相手への怒りが垣間見える。その更に奥にあるのは、自分が攻撃されたくないという恐怖や不安、又は願いだろうか。

 

これは勝手な想像だが、おそらく俺を悪いといった職員も同じなのではないか。自分が攻撃されたくないから、理論で武装して、先に誰かを攻撃する。

ただこの身が傷つかぬようにお互いが理論で攻撃し、防御しあっている。そしてより他人に共感される理論、より論理的な理屈で武装したほうが勝利し、傷つかないで済む。

けれど、理論武装して自分の責任ではないことを他人に説明し、共感させたところで何になるのだろうとも思う。

 

お互いが理論武装しなければならないほどに恐れや不安があることのほうがより重要な問題だろう。理論でタコ殴りにしたり、カウンターしたりする前に、奥にある恐れや不安を取り除くことはできぬものかなーなどと考えた日だった。

 

…いやまあ、こんなこと言ってますけど、自分が責められるのが怖いから俺を悪く言ったとかじゃなく、ただ単純に俺が悪いと思ったからそう言っただけって可能性も全然あるけどね。

スプラトゥーン3という興奮剤

スプラトゥーン3を買った。対人ゲームは大抵長続きしないから、買うかどうか迷ってたけど、1も2もやってきたし、3もやってみるかと手を出してみた。で初日は徹夜した。

ゲームをしながら朝日を拝むのなんて随分久しぶりな気がする。同時に自覚できるほどの心拍数と血圧上昇があったので、7時位には大人しく寝ることにした。

スプラトゥーンはまじで興奮剤である。ツイッターの漫画で見たが、「やってられるかこんなクソゲー!!」と思いながら、しばらくすると「こっちの武器でやってみるか」とどんどん沼に沈むように続けてしまう。初日に飛ばしすぎたので、その後は流石に徹夜はしていないが、やり始めると止まらないのはスプラトゥーンの怖さ。1試合5分程度で終わるから、色々試してみたくなってくる。今のところ、ボールドマーカーで突進→長距離武器で狩られる→やっぱりボールドじゃ限界がある→武器が迷走し始める→ボールドに戻すと何故か勝てる→ボールドマーカーで突進のサイクルを繰り返している。

2と比べると、シーズン内でのランク下降は無くなったため精神衛生的にはたいへん助かっている。

こういう対人ゲームでの最近の自分の課題は、「目に見える範囲の人がどんどん先に行く中でどう楽しむか」になっている。私は熱しやすく冷めやすいところがあり、ある程度のところまで行くと、しばらくはいいかなーと思って、別のことをやり始めたりする(最近ではもっぱらギターが多い)。で、しばらくすると戻ってみたくなるのだが、よく見てるVtuberとかツイッターの人とか普段目に入る範囲の人が、どんどん先の階級とかに行っていると、何か自分がつまらないことをやっているような気になってきてしまい、最初のようなまさに熱中と言えるような状態にどうにもなれないのである。

ほとんどは野良のマッチなんだから、自分は自分で勝手に買った負けたと楽しんでおれば良いのに、どうにも人と比べて自分の立ち位置が低いような錯覚に陥ることがままあって、この癖をどうにかせんとなーと思ってたりする。

ちょうどお釈迦さんの仏像も買ったことだし、仏さんの顔を拝みながらゲームするといいかもしれんな。人と比べる云々以前に、そもそも浴びるようにゲームするのが既に煩悩じゃねーかと言われるとそうかもしれないけどw。

比較を消滅させる仏教的精神を保ちつつ対人ゲームやるという、一文で矛盾が生まれそうなことをやるのもまた修行でいいかもしれん。そもそも仏教は矛盾の塊みたいなところあるし。