沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

どこか別の場所へ行きたい衝動

ここ数週間、ここではないどこかへ行きたい衝動に駆られている。

書いてしまえば何とも中学生あたりが言いそうな言葉だ。

こういう時はドライブへ行くとそのうち収まってくるのだが、またそのうちぶり返してくる。

昔からこの感覚は持っていたように思うが、ここ最近は特に強く感じるようになっている。コロナで好きなようには外に出れないから、これほど感じているのだろうか。

「ここではないどこか」と言っても、特定の場所があるわけじゃない。

もちろんヨーロッパとか中東とか秋吉台とか行きたい場所は色々あるのだが、たとえ今すぐそこへ行ったとしても、旅行している間は楽しいと思うけど、いずれまたどこかへ行きたいと言うだろう。

 

まさに底の抜けたバケツに水を溜めるが如く、衝動が鎮まることがない。

 

恐らく現実の世界のどこかに行きたいという欲求ではなくて、結局は現実逃避なのだろう。あえていうなら、何かのアニメの世界に行きたい。ARIAの世界なんかは特に行きたいね。
他の世界に行くというと、なろう系で異世界転生ものが流行ったことが思い出される(現在進行形で流行ってるのか?)。あまり読んだことはないが、多分異世界転生欲求に近い感覚。あるいは夢小説もそう言えるかもしれない。

 

と、つらつら書いているうちに、この漫画を見つけて、この感覚について分かってきた。

 

 

 

そう、私は「オタクの心にある架空の世界」に行きたいんだよ!!!

 

こういうのとか

 

 

 こういうのとか!

 

 さて、どこに行きたいか分かってすっきりはしたけど…、じゃあどうすんのって話になってきたな。

 漫画で言われてたように、これって幻影だから行くことができないんだよね。

もちろん似たような風景は世界のどこかにあるだろうし、写真を撮って加工すればこういう雰囲気のものを撮ることだって可能だろう。

似たような場所に行って景色を眺めれば一時的には満足できるかもしれない。

 

けれど、私が行きたいのはリアルワールドの「そこ」ではなくて、この「幻影」の中なのである。でも幻影はどこにも無い。

 

無いところに行きたいというこの矛盾をどう解消すればよいのだろうと考えてみたのだが、あまりにアプローチが思いつかなすぎるので、とりあえずここで終わっておく。

 

答えが見つかったらまた書くかも。

 

 

 

 

 

 

 

死を考えるということ

ドライブしていると色々なことが頭をめぐって面白い。今回は死ぬことについてつらつらと今の考えを書いてみたい。

 

私は今のところ幸いにして二等親以内の肉親が亡くなったことも、身近な友人が亡くなったこともなく、葬式に出たこともまだない。なので、今後そういう経験をしたら考えが変わる可能性は多分にあるものの、現状の記録を残すのも面白いだろうと思う。

 

・「死んだら何もかも消えて終わり」信仰

とりあえず現状として、私は「死んだら何もかも消えて終わり」派の信仰者だ。現代日本だと結構多数派だと思っているんだけどどうなんだろ。

 

もちろん肉親が亡くなったら火葬して、遺骨を墓に納めるだろう。でも、じゃあ亡くなった人があの世とか天国に行って楽しく暮らしてるとか、もしくは生まれ変わって次の人生を歩んでいるとか「本気で」「心の底から」信じられるかと言われたら、私はできませんと言わざるを得ない。

 

当然、自分が死ぬ時も同じで、何もかも消えて終わりだ。

 

・死ぬことの恐怖

最近はほとんどなくなったが、昔はちょくちょく死んだらどうなるのだろうとか考える時期もあった。中学生くらいの時だったか、少し本気になって死ぬときのことを考えたことがあって、死んだら何もかも無くなるって考えてたらぞっとしたことを覚えている。自分が今見ているもの、過去に見てきたもの、未来に見るだろうもの、自分を取り巻く全ての人・物・世界が消えて無くなって何も残らないということに戦慄したのだ。

 

それ以来、本気で死について考えることはあまりしないようにしていた。あの究極の虚無みたいな感覚はあまりにも恐ろしすぎた。

 

もしも死後の世界や生まれ変わりを信じることができれば、そこまで恐ろしいものでもなくなるのだろうか。

 

タイなどの上座部仏教が盛んな国では死後に転生するという感覚の人が一般の人にも多いそうだ。「死んだらどうなるか? 生まれ変わるじゃん。常識的に考えて」といった感じだろうか。伝聞話だから眉につば付けて聞かないといけないが、なんとなくイメージ的にはありそうな話だ。

 

そのレベルで生まれ変わりを信じることができれば、死ぬことの恐怖自体は多少軽減されるのかもしれない。まあ、そうしたら今度は来世の心配しだすかもしれないけどね。
とはいえ、今更生まれ変わりを常識レベルで信じることなどできるわけでもない。結局私にとって死ぬのは恐ろしいままだ。

 

たまに「明日死ぬと思って生きれば人生が豊かになるよ」的なことを見聞きすることもあるが、少なくとも今の私にとってはピンとこない。あんな虚無の感覚を抱いたまま生活していたら、遠からず発狂するように思える。死ぬということに目をそらし続けているからこそ、何とか日々を生きていけるというのが今の私の感覚だ。この辺は加齢と共に変わっていくのかもしれないけどね。

 

なんだか、死ぬの怖いということしか書けてないな。

 

でも、例えば今が本当に苦しくて七転八倒している状況であれば、死ぬのが救いに思えるのだろうとも思う。死んだら当然今の苦しみも消えるのだから。

 

・生死の不自由さ

とはいえ、死ぬのが怖いと言ったり、死ぬのが救いと言ったりしたところで、どうすることもできはしない。

結局死ぬにしたって、自分で自由に死ねるわけじゃない。死ぬに至るプロセスがあり、死ぬに至る身体・脳の活動があり、因果があって死ぬのだ。

 

死にたくない死にたくないと思っていても、次の瞬間に死んでるかもしれないし、逆に死にたい死にたいと思っていても生きてしまうこともある。

生きるとか死ぬとか自分でどうこうできるものではないと私は思ったりする。

 

結局のところ、死ねないのなら生きるしかない。

生きるしかないのであれば、そこそこ楽しく生きたいものだ。

近況日記 もしくはウマ娘雑記

ここ1週間ほどウマ娘にハマっている。

ウマ娘というコンテンツ自体はどこかで知っていたが、アニメが展開されていたり、ゲームが延期になって最近出たのは話題になるまで知らなかった。

ツイッターで話が出ているのを知って、とりあえずアニメの方を観てみた。これがなかなか面白かったので、試しにゲームもやってみることにした。

 

とはいえ、当初は3日くらいで飽きて辞めるだろうと思っていた。どうも私はスタミナとガチャがあるゲームとは相性が悪いようで、数日やったら終わってばっかりだったから。

 

私はやりたいと思った時には何時間でもゲームやりたいタイプだが、スタミナはハマったときにがっつり長時間することを妨げる。

またガチャは、かけた金額とゲーム体験の質が比例しないのが好きじゃない。数万出しても欲しいものが出ないこともあれば、数千円で出ることもある。いくら出したらこの体験ができるというのが分かりにくい。

そんなわけで、スマホゲーはやるとしても買切り型か、スタミナがあったとしても課金でスタミナ無限にできるゲームしかしっかりやったことはなかった。

 

さて、ウマ娘はというと…、ここ最近はずっとウマ娘しているし、既に5000円ほど課金してガチャを回してしまった。いわゆる微課金といったところか。

 

まずスタミナについてだが、概念はあるもののほとんど気にならない。

育成でスタミナ(TP)を消費するものの、育成にそこそこ時間がかかるため、終わることには結構回復している。初回でしっかりストーリーを楽しんでいれば3,4時間ほどはかかる。全部スキップすれば数十分ほどだろうか。ただ、メインのストーリーだけでなく、サポートカードのエピソードも随時出てくるため、始めてしばらくは全スキップすることもないだろう。

 

育成ウマ娘を替えながら8,9時間もやっていれば十分満足できる。仮にTPが枯渇しても、回復手段がゲーム内の報酬だけでそこそこもらえるため、相当効率化してやらない限りはスタミナで不満が出ることはなさそうだ。

むしろウマ娘をやりすぎて寝不足になることを心配するべきだろう。俺は仕事があるのに夜中の4時まで辞められず、無事寝坊で遅刻するというクソださムーブをしてしまい、さすがに反省した。

 

次にガチャについて。といってもシステム自体は他のゲームのガチャと変わらないと思う(あまりガチャをやったことがないので何とも言えないが)。

 

ただ、めっちゃガチャ回したくなる。

 

育成物のゲームであるため、やってるうちに能力足りなくていい結果残せなかったってこともある。そんな時、「ああ、あのサポートカードがあればなあ…」なんてことをよく思うのだ。サポート6枚のうち1枚は他の人から借りられるが、自分の手持ちが少ないと、やはり育成の自由度が下がる。そんな時はもっとカードほしいなと思いやすい。

 

育成ウマ娘についても、ウマ娘同士の関係性が分かるについて、相手のストーリーが気になることが多く、持っていないウマ娘が欲しくなる。

また、レア度が3未満のウマ娘は共通の衣装しかないが、強化してレア度3にすると専用の衣装がもらえる。レース後のライブを観ていると、この専用衣装が欲しくなる。この強化をするためにはガチャを回して同じ育成ウマ娘を出すのが一番早く、こちらもガチャを回したくなってくる。

 

そんなわけで、ガチャのための課金をウマ娘で人生で初めてした。

 

しかしまあ、「ガチャは悪い文明」だよホント…

こんなにガチャをやらせるように誘導しといて、目当てのものがもらえるのは運しだいだからなー。これって、自分の欲しいものを確定でもらえるようにするとしたらいくらくらいの価格設定になるんかね。ピックアップの確定交換回数をもとにしたら5,6万くらいか? そもそもゲーム性自体を変えないといけないかもしれないが。

 

2万3万と課金するのも厳しいが、スーパークリークも欲しい…。どれくらい課金すればいいか、悩ましい日々がしばらく続きそうだ。

 

読書感想文「推し、燃ゆ」 ネタバレあり

エオルゼア読書倶楽部でお世話になっているユズさんが紹介していたのを見て、オタクとか発達障害とか気になるフレーズがあったので、さっそく読んでみた。

 

紙か電子かで迷ったが、仕事の休憩中ですぐに読みたかったので、電子書籍で購入してすぐに読んでみた。
その結果、心の半分を本に吸い取られ、仕事中も心ここにあらず状態に陥ってしまった。するすると読みやすく、いつの間にか本の中にいるような感じだった。
この本は語り口が淡々としていて結構静かだなと感じる。BGMがないただ環境音だけの世界だけども、だからこそ想像がしやすく、それが読みやすさに繋がっているのかもしれない。

 

物語はアイドルの上野真幸がファンを殴ったことで炎上したところから始まる。
主人公のあかりは高校生で、上野真幸を推しとして熱烈に応援しており、自身の背骨と言えるほどになっていた。
その推しが炎上したことで、人気に陰りがみられるようになる。
自分の背骨である推しの人気がなくなっていくことで、あかりはどのように感じ、行動するのかというのが見どころ。

 

発達障害の描写

物語中、随所であかりの生きづらさが描かれる。最後まで名前は出されないが、病院で何らかの診断をもらっているらしい。描写からは多分発達障害の一種のような感じがする。
自分も多少あかりに似たような経験があるから、失敗したときのエピソードを読むと過去の自分の失敗を思い起こしながら読むこともあった。


特にバイトの描写とかすごい自分を見てる気分がした。
作業ルートの分岐を覚えてある程度はこなせるようになっても、忙しいときに限って例外事項が出てきて、頭からこぼれ落ちていくとかまさに自分だ。例外事項に脳のメモリを使ってる時にさらに外部から新しい用件ばんばん言われて、本書の表現を借りれば「焦りばかりが思考に流れ込んで乳化するみたいに濁っていく。」

 

家での生活や学習についても、いつの間にか物が堆積して足の踏み場もなくなっていたり、何度も聞いて覚えたように思えても次の日には忘却していたり、周りが普通にできていることが自分にはできないという思いを抱えていたようだ。

 

そういった生きづらさを、あかりは「肉体が重い」と言っていた。
その重さを支えて何とか立たせてくれていたのが、背骨としての推しだったのだろう。推しがいたから二足歩行して歩いていられた。それは世界の中心だった。
じゃあ、背骨が、推しが消えていったらどうなるのか?。それがラストに向かって描かれていく。

 

・執着ゆえの苦

物語上で「執着ゆえの苦」というのが随所に出ていたように個人的に感じた。自分が仏教趣味でそういったテーマを基に読んでしまうところが大きいからとは思うけども。


主人公のあかりは言わずもがな、推しに対して強い執着を持っていた。それも自分の背骨と同化してしまうほどに。推しの人気に陰りが出てからは、まさに自分の身を削りながら推し活動を過激化させていく。そうしなければ自分が立てなくなるかのように。
結果として健康を害し、もとより悪い成績も悪化した。

 

あかりの母についても、自分の理想の家庭像に執着しているように感じた。手に入らない際限のない理想という欲望に執着して、不満を募らせ苦しんで白髪を増やしていた。

 

こんな感じで物語に執着ゆえの苦が描かれているように感じ、はてさて仏教の枠組みではどのような回答をするのかなーとか考えることもあった。

 

・ラストの救い

物語の最後に、自分は救いがあると感じた。


自分の背骨である推しが消えた後、自分から生活を滅茶苦茶にしようとした時、あかりは気づいた。「中心ではなく全体が、あたしの生きてきた結果だと思った。」「二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。」

 

今まで推しを推している時は、背骨があったから重さを忘れられていた。でももう背骨はない。
その時自分の体の重さに気づいた。中心たる推しではなく、部屋の全体こそが自分が生きてきた結果と気づいた。それらに気づいた上で、自分からたたきつけた綿棒を拾って生きようと思うことができるのであれば、きっと当分は大丈夫だろうと感じた。

 

・題材の普遍性

この本のレビューで「題材が若い」というのを見かけたが、個人的には若者に限らない普遍性があると感じた。

 

本書でいう「推し」と言えるものがなかったとしても、人それぞれに自分を成り立たせている大切な要素(背骨)みたいなものはあるだろう。

家族だったり、恋人だったり、健康だったり、目標だったり、思考能力だったり、経歴だったり。それらはいつか消えたり無価値になる。無常なるものだから。

 でもその後だって、人生は続くのだ。自分が大切に思っていたものが消えた後も、死なない限りは生き続けるしかない。

その時私たちはあかりみたいに、自分の重さを感じながら、散らかしたものを片付けながら生きようと思えるだろうか。

自分だったら死ぬことはなくとも、多分心身のバランス崩してぶっ倒れそう。

そういう意味であかりは結構強いなーと思ったりしていた。

 


 

全体を通して心を吸い込まれた作品だった。

こういう出会いがあるから読書は面白い。 

 

己に潜む世間の目

自分の中に、自分が嫌っている世間の目みたいな価値観があるなーって感じて、そういうのに振り回されたくないな~って話。

 


もう随分昔のことながら印象に残っていることがある。

7,8年前だったか、まだ自分が学生で、秋葉原を散策していた時のこと。

いわゆるメイド姿にコスプレした女性を見た。チラシみたいなのを配ってたから、多分お店の呼び子だと思う。

ここまでは秋葉原ではいつもの風景だろう。

ただ、ご本人には本当に失礼だとは思うが、その女性の風貌が気になった。

 

服はピンクのフリフリが着いたメイド衣装ながら、年の頃は見た感じ50代以上に見えた。今どきはお年を召されていても美魔女と呼ばれる人もいるが、そういったタイプでもなく、皺が刻まれ、苦労してお年をとられたのが感じられるようなイメージ(完全に個人の偏見です)。

 普段秋葉原でメイドのコスプレしている人たちと比べると、ひどく浮いた印象の女性だった。

その人を見た時、当時の自分は何だかネガティブな「うっ!?」という感覚を持ち、その後「いい年して何をやっているのだろう…」と感想を持った。

その瞬間、「ああ、これが世間の目というものか…」と少し自分に落ち込んでしまった。


私はいわゆる世間の目みたいな価値観が好きではない。
ゲームが好きと公言しているとたまーに「(年齢的に)まだゲームやってるの?」みたいなことを言われることもある。面と向かって直接言われることはあまりないものの、世間的にあまりいいイメージはないだろう。

そういうのに反発してやってきたところもあったから、コスプレとかについても、それこそ老婆だろうがきもいおっさんだろうが、本人が望んだコスプレであれば何ら妨げられるものではないのだから、変に拒否せずに「いいじゃん!」って思えばいいのにとそれまでは考えていた。

 

 で、現実にその場面に会ったらどうしたかと言えば、「いい年をして…」とかいう自分が忌み嫌ってきた感想を覚えている。
なんというか、自分自身が所詮「世間の目」を内包した俗物でしかないなーと思ってしまったわけだ。

 

それと同時に、自分の忌み嫌ってきた世間の目なる価値観も、別にきちんとした考えや思想があるわけではなくて、もっと原始的な自動的に浮かんでくる「うっ!?」というネガティブな感覚を根拠にしているに過ぎないのかもなーとも感じた。

 

「うっ!?」という感覚が自動的に浮かんでくるものなのだとしたら、それはもはや自然現象というものだろう。
雨が降り、川となり、海に流れて、雲となって、また雨が降る。それと同じこと。自然現象それ自体について良いとか悪いとかいう人はいないだろう。というか良いも悪いもない。ただそうだからそうなっているだけだ。

 

この自然現象としての感覚を根拠に世間の目が作られているなら、そんなものにいちいち固執して、嫌っていた自分は大分あほになるな。

私の感じてきたことは雨が降る中わざわざ傘も差さずに外に出て、「雨が降るのは悪いことだ!。やめろ俺を濡らすんじゃない!!、とっとと晴れろ!」と言っているようなものだった。
良いとか悪いとかないし、雨が降ってるなら家にいればいいし、出かけたいなら傘でも差せばよかったのだ。坂本龍馬みたく雨に濡れるから川に泳ぎに出かけてもよかったかもな。

 

出来ればいちいち自然現象としての感覚に振り回せれないようにしていきたい。
ただ、なかなか難しそうだな~。どうしたって嫌な言葉を聞いたら嫌な気持ちになってしまうもので、それに振り回されるのも人間だろうという気持ちもある。

それにそういった自然現象としての感覚から距離をとろうとするなら、ネガティブな感情を遠ざけることもできようが、同時にポジティブな感動とか楽しみなどからも距離を置くことになりうる。

 

この辺のバランスをどう取っていくのかがこれからの肝かもな。

 

 

Valheimくそ面白い

最近話題のValheimにはまってる。

store.steampowered.com

 

ネットのゲーム記事とかで結構話題になっていたのは知っていて、ジャルさんやれくのさんがやっているのを知ったので、試しにやってみるかと思い立った。

元々箱庭ゲームは自由度高すぎて目的が見いだせずにやらなくなったり、海外ゲーのグラフィックが苦手なことが多かったりして、楽しめるか不安だったが、現状かなり楽しい。

今は共同で開拓する用のジャルさん鯖とソロで開拓中の自分の鯖の2つを行き来している。

 

さすがに今は少し落ち着いたが、購入した当初は連日夜中の2時くらいまで遊んでしまうくらいには面白い。寝不足過ぎて若干仕事に影響出てしまうのなんてかなり久しぶりだった。

 

本作は北欧神話やバイキングをベースにした世界観で、オープンワールド内でサバイバル生活をするゲーム。あまりこういったサバイバルゲームは実況とかで観ることはあっても、したことがなかったため結構新鮮だった。

 

広大な世界

マップがとんでもなく広く、探索好きにはたまらないだろう。最初の島は大体6,7時間もあればおおよその大きさは分かってくるんだけど、本当に世界の一部でしかなく、別の島に船で行く必要が出てくる。地域の特性(バイオーム)も現時点で7,8種あるようで、まだまだ行けていないところがたくさんあり、モチベーションが高まる。

 

綺麗な風景

今までやった海外製のアクションゲームとかだと結構おどろおどろしい雰囲気のモンスターや場所が多くて、気分が乗らずにあまり続くことがなかった。例えばウィッチャー3は10時間くらいやったらげんなりして、そのままやらなくなっていた。
その点、Valheimは景色が綺麗。上手く言えないがゼルダの伝説BotWを髣髴とさせるような空気感がある。

海の表現も動きをとても感じられる作りで、昼の凪の海はゆったりできて綺麗だし、夜の嵐はとても恐ろしく感じる。夜の船上から見る星も静かで綺麗だ。


ただ、プレイヤー近くのグラフィックはとんでもなく粗くなる。これは意図的なものらしく、容量を軽くするためらしい。自分も始めた当初は「グラフィックPS1レベルじゃね…?」と驚いていたが、近くを粗くして、遠くは綺麗に見せるという工夫には感心した。
こういったワールドの綺麗さは自分がゲームを続ける強い要因になるため、とてもありがたい。

 

明確な目的

ボスという明確な目標があるのも自分的にありがたい。例えば箱庭ゲームで「遊ぶ場所作ったから好きに遊んでね」みたいなやつだと自分は続けられない人間だ。いわゆる何をしていいか分からない状態になってしまう。
ボスがいることで、目的から逆算して小目標を作って達成できてくるので、モチベーションが上がる。

 

難易度

3,4人と遊ぶのとソロで遊ぶのを両方やると難易度の差はやっぱりある。正直、ソロだと結構きつい難易度のような気がする。探索も採取もやはり人がいたほうが圧倒的に効率的だ。
ソロでやる時は裏技的に資源収集用の鯖を新しく作って、物資の運搬を楽にしてやっている。これはさすがにやらないとあまりに時間がかかり過ぎてしまうため妥協している。
出来れば鯖の人数に応じて、何らかの差があってほしいなあとは思うなー。

 

あとワールドの生成は作成時の英数字で決まるため、初期位置からのボスの遠さとかも変わってくる。

自分の個人鯖みたいに、2番目のボス倒すために遠洋航海して、明らかに後半に行くような地域に行かせられる可能性もあるが、鯖自体は簡単に作れるし、難しいと思ったら別の鯖を作るのも全然あり。自分はなんか負けた気がするからしばらくは今の鯖で続ける予定だけど。

 

こんな感じで、なかなかに楽しみながら進めている。とりあえず2番目のボス倒してーーー!!

 

 

変わらないコンプレックス

中学の部活の同輩の結婚式に呼ばれたときに、こう言われたことがあった。

「君は変わらないね」

向こうとしてはただの感想だったと思うのだが、なんだかモヤっとしたことを覚えている。

どうにも私は変わらないということに関してコンプレックスみたいなものを感じてしまっているようだった。

変わらないもの

確かに髪型も中学生からほぼ変わってないし、顔もそんなには変わっていないらしい。生活パターンさえ大して変わっていないように思える。多少金に余裕ができたから休みに出かけることは学生時代よりは増えたかもしれないが、基本的な行動パターン自体は学生時代の延長線にしかないような感じ。

 

学生から社会人になったときも大して違いがないように思っていた。

昔から親から「社会人は学生とは違うぞ。責任感が違う」みたいなことを言われていたが、社会人になったとき、親から言われていたほどでもなかった。せいぜい、中学生から高校生になったときや、高校生から大学生になったときと同じような感覚だった。

 

「学校へ行くように仕事に行き、学校から帰るように仕事から帰る」

…と思ったけど、これ多分逆だ。

 

「仕事に行くように学校へ行き、仕事から帰るように学校から帰っていた」というのが自分の感覚としては合っているように思う。ある意味、社会人になるための学校教育のたまものとも言えるかもしれないが、気づいてしまうとなんとも味気ない学生生活だったなと思ってしまう。

 

行動パターンを変えてみる

では、なぜその変わらなさをコンプレックスと感じているのか。

当然、中学時代からあまり変わっていないことに対して良くないことと考えているからだろう。成長していないように感じるというのが適当か。

 

実際のところ、10年以上経って変わらないというのはあり得ないけどね。良くも悪くも変わっていくものだし。今回の話は単に変わっているところが人から見えにくいところにあったということだろう。

 

うーん。どうすればいいかな。何か目に見えやすい形で変化するという手もあるし、変わっていないことが良くないという価値観をアップデートするアプローチもあるか。

 

行動パターンに変化を加えてみるかなー。