沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

ハピエン厨としての私

「王道で行こうぜ、王道で。そんなところで奇ィてらってどうするんだよ。普通に終わらそう、普通でいいんだよ。何事も普通が一番だ。てめえみてえな不幸な奴と玖渚ちんみてえなかわいそうな奴とのおしまい・・・・なんだぜ――」

「―――ハッピーエンド以外は認めねえつーの」

ネコソギラジカル下 青色サヴァン戯言遣い p.273)

 

 

上記は戯言シリーズの《人類最強》 哀川潤のセリフだ。
もうずいぶん前の作品になるが、上記の言葉が自分のハピエン好きな理由の代弁みたいに思ってる。

 

私はハッピーエンドが好きだ。何をもってハッピーエンドとするかは各々一家言あるように思うが、私の場合は最後の一文に「めでたしめでたし」ってつけて違和感なければハッピーエンドと感じる人間だ。ただし主人公が死ぬのは無条件でNG。

 

特にそれまで散々苦労をしてきたような描写があると、最後くらいは報われてほしいなーと思ってしまうのだ。

 

なんで、この前感想文書いた正欲みたいなのはとても心に来るものがあるのだ。

numamemo.hatenablog.jp

 

報われないのを見るとブルーな気分になるんだよ。

 

終わりよければすべてよし。

 

ハッピーエンドになるなら、強大な力を持ったキャラクターが無理やりハッピーエンドにするような強引な展開でも許せる。むしろ、バッドエンドが避けられるなら、積極的にそういうキャラクターを出すほうがいいぐらいまで考えてる。要するに安心したいのだ。

 

このキャラクターが登場したらもう安心。紆余曲折はあれど全てが解決され、全てが収まるべきところに収まる。そんなキャラクターが私は好きだ。前述の戯言シリーズにおける哀川潤もそうだし、時代劇で言えば水戸黄門大岡越前なんかもそうだろう(こっちはあまり観たことないけど)。

 

とはいえ、そんな完全に安心できるキャラクターがずっといたのでは、物語としては面白みに欠ける気もする。哀川潤だって常に最強だったわけじゃなくて、終盤ではピンチになってたし。バランスの問題と言ったところか。

 

そういえば「天気の子」が流行ったとき、ラストがハッピーかどうかといった話が出ていた気がする。主要人物が健在で幸福そうだから、私は十分ハッピーエンドだと思った。

といってもそれは、そこで終わるフィクションだからハッピーと言える。

 

現実は幸福が不幸の始まりになったり、不幸が幸福の種になったり、まさしく塞翁が馬、あざなえる縄の如しであって、どれが幸福でどれが不幸なのかなんてほとほと分からんものです。

 

「終わりがハッピーならオッケー」というなら、自分が死ぬ時が終わりと言えるかもしれないけれど、じゃあ、死ぬときにハッピーでいられるのかと言えば、そんな想像はなかなか出来ないわけで。

かの一休宗純とて臨終の言葉は「死にとうない」だったという。まあ嘘か真か分からないが、そんな逸話もある中で、自分が死ぬときにハッピーでいられるとは思えんなー。

 

…筆が滑りに滑って、何が言いたかったのか全然分からなくなった…。自分は何を言っているんだ?????

 

まあ、ともかく私はハッピーエンドが好きだけど、人生はハッピーかバッドかは判別つかないよねってことで終わっておこう。

読書感想文 「聖なるズー」 

最近、記事が読書感想文だけになっているが、まあ読書欲が戻っているということでポジディブに捉えていこう。

 

今回は濱野ちひろ著 「聖なるズー

 

「正欲」の感想とかをあさっている時にこの本をを紹介しているものがあった。調べてみると動物性愛者へのフィールドワーク研究の本のようだ。人類学で狩猟採集民族とか放牧民の研究とかは聞いたことはあったが、動物性愛者というあまり知らない世界の話であったので興味を持った。

 

題名の「ズー」とはズーファイル(zoophile 動物性愛者)のことを指す。聖なるズーはズーの人々、とりわけドイツにあるゼータという団体に所属するズーたちと生活をともにし、ズーたちの生活や思いについて研究した本だ。

 

動物性愛とは、人間が動物に対して感情的な愛着を持ち、ときに性的な欲望を抱く性愛の在り方を指す。感情的な愛着を持つという点で単に動物とセックスする獣姦とは区別される。

 

動物の性欲

本書を読んで思い出したことがあった。私の家で飼っていた犬のことだ。オス犬で既に去勢をしていたが、それでもたまに腰を動かして陰茎を勃起させることがあった。

それを初めて見た母親はそれなりにショックを受けたようで、なんだか気持ち悪いと語っていたことがある。

 

本書の中で、パートナーである犬のマスターベーションを介助するエドヴァルドというズーの話がある。彼は人間と同じように犬の性もケアされるべきではないかと言う。

なぜなら犬は人間と対等な存在で、犬にも人間と同じように性の欲求があり、それは大事な生の一面だからだ。

 

この動物の性欲という視点は今まで全く意識したことのない視点だった。

無論、犬の生殖とかの情報は多少知っているが、それはあくまで犬対犬の話で、人間の世界とは一線を画すものとして感じていた。ましてや人間が犬の性欲のケアをするというのは考えたこともなかった。

しかし、言われてみればその通り。犬にも性欲はあるだろうし、人間と対等な存在として扱うのであれば、それをケアするのも重要な役割なのだろう。

彼らにとってはペットが陰茎を勃起させることは当たり前のことであり、気持ち悪いなどとは思わないのだろう。

 

動物との対等性

ズーに特徴的なのが、動物と人間が対等な関係を築こうとするところと感じた。

筆者は多くの場合、犬は家族内の地位が永遠の子供になると述べている。

飼い主は子供に接するように高い声で犬に呼びかけ、抱きしめ、時にはキスをする。

永遠の子供だから、生々しい性の欲望を見せつけられると狼狽するのではなかろうか。


その点で、ズーは対照的だ。

ズーにとって動物は人間と同じパーソンだ。だから相手の要望に気を配り、相手の気持ちをくみ取り、お互いが求め合えばセックスもする。

対等な人間の大人がするようなことをパートナーの動物ともする。

 

とはいえだ。筆者もたびたび違和感を覚えたように、「本当に動物が何を考えているか分かるのか?」という疑問は頭をもたげる。

確かに動物にも性欲があるだろう。ズーは動物と自分が対等に同じく求めあうときにセックスすると言う。しかし、本当にそんなことができるのだろうか。

 

とここまで考えてきて、結局それって人間も同じじゃないかと、はたと考えた。


私は他人のセックスの過程をAV以外で見たことはないが、明確に分かる形でセックスの同意を得ることは多分ないんじゃないか。

例えば「私はこれからセックスとしてこれこれのことを行いますが、諸々の問題を認識し、この行為に同意しますか?」などと聞く人は(多分)いないだろう。ましてやセックスに関する同意書のようなものをやり取りするというは聞いたことがない(マジで俺が無知なだけだったらすまん)。

ほとんどの人は何となく一般常識的な雰囲気とか仕草でセックスするかどうか判断してるんじゃないの。

仮に客観的な許可・不許可を明確にしたところで、結局「(一度同意したけど)本当はしたくなかった」と言える余地があるんだから、やっぱり本当はどう思ってるのかなんて分かるわけがない。


とすれば、ズーの人たちが、「お互いに求めあった(客観的な根拠はないけど)」という主張と、人間同士の「お互いに求めあった(客観的な根拠はないけど)」という主張も大して変わらない気もするなーと考えた。

 

ズーから考えるセクシュアリティ

最初に動物性愛というのを聞いたとき、私は小児性愛などと同じようなものかと思っていた。

しかし本書を読んだことで、少なくとも小児性愛とは真逆で動物と「対等な関係」を築こうとするセクシュアリティなのだと考えるようになった。

ズーという生き方から、自分のペットへのまなざしや、セックスのありかたとかを考えることになり、自分の立っている場所が揺れ動くいい本だった。

なお、動物性愛を精神疾患と捉える人もいるが、何を「病気」とするかは、お偉い学者先生方と時代が考えることなので、病気かどうかはよく分からん。ただ、本書に出てくるような人たちは周りにいたとしてもある程度受け入れられるんじゃないかと思ったりした。

ただし、本作で登場したズーはあくまでゼータという比較的穏健と思われるグループの人がほとんどだ。

ドイツ滞在の最後にゼータから脱退したズーに会っているが、その人からすればゼータは聖人君子過ぎるという話も出ている。

ゼータ以外のズーの実態にも迫れればなお深みが出ると思うので、今後発表があるようなら確認したい。

 

読書感想文 「正欲」 ネタバレあり

「あなたは人間として正しい感情を持てていますか。」そう問いかけられた気がした。

 

例えばの話。

隣近所の人から「私、バラバラ死体に欲情しちゃうんだよね」と言われたら、あなたは心穏やかにそうなんだーと言えるだろうか。

気持ち悪いと思うかもしれないし、出来れば近寄りたくないと思うかもしれない。ある程度近しい人なら病院行ったほうがいいんじゃないと言うかもしれない。

ある人が言う。これからは多様性の時代だと。

果たして、バラバラ死体に欲情するということを、多様性の名のもとに表立って言える日は来るのだろうか。

 

正欲を読み終えた後、そんなことを考えたのだった。

 

 『正欲』はセクシャリティに関してマイノリティと呼ばれる領域の、さらにマイノリティ側にいる人間の苦悩について描いている。

本書ではマイノリティの中に、「(社会的に)許される」マイノリティと「許されない」マイノリティがいることを描いている。いわゆるLGBTQは許されるマイノリティ

つまりは、「私はレズビアンです」「私はゲイです」「私は…」と言ったとしても、世間から「そうなんだ。大変だったでしょ」等と応援されうるマイノリティだ。

本書で主軸になっているのが許されないマイノリティ、つまりそれを明かしてしまえば世間から「なんよそれ。意味わからん。まじウケる。でもキチガイは迷惑じゃなあ。」と言われうる性質を持つマイノリティだ。

登場人物では夏月や佳道、大也が後者にあたる。彼らは「水に欲情する」性癖として描かれている。それも水に濡れた人間とかではなく水そのものに欲情する。

もっと卑俗な言い方をすれば、水が飛び散る様や水風船が破裂する映像、水がコップに移る画面を見てオナニーしてきた人間達だ。

 

 正直、初めて水に欲情することが明かされたときは、当人たちが思うほど後ろめたさ感じることかなー?と疑問に感じた。

確かに水自体に欲情するというのは、キモイくらいは言われる可能性はあるかもしれないが、もっとドン引きされる性欲はいくらでもある。

作中でも言及があるけど小児性愛とか死体性愛なんかはその最たるものだろう。そこまでいかなくても、自動車性愛だったり、郵便ポストや道路と性交して逮捕されたりする事例もある中、水に欲情するというのはそこまで嫌悪感なく受け止められるんじゃないかと思った。

でもまあ、確かに水に欲情するという話で、友人と下ネタで盛り上がるというのは難しいかもしれないな。そう考えれば孤独感という点では小児性愛者とかと変わらないのかもしれない。

また、作中では水性癖を拗らせた挙句、よりによって警察施設に侵入して蛇口を盗んで水を出しまくるという犯罪を犯した人間がニュースになっていて、そういうのも重なって、自分の性癖を悪いものとして捉えることに頑なになったと思われる。

 

・多様性とか気軽にいってんじゃねえ!

本作で通底しているのが、「多様性とか気軽に言ってんじゃねえ!」精神。

それが凝縮されているのが物語終盤に起こった、大也と八重子の言霊カードバトルだろう。

 

「どんな人間だって自由に生きられる世界を! ただしマジでヤバイ奴は除く」

「差別はだめ! でも小児性愛者や凶悪犯は隔離されてほしいし倫理的にアウトな言動をした人も社会的に消えるべき」

多様性を礼賛する人間の本音はこんなところだと大也は言う。

そこに水に欲情するようなマジでヤバイ奴の居場所なんてない。

 

実際「多様性」ってかなり恣意的に都合よく使う人もいて、多様性最高!とか多様性は絶対に必要!とか言ってる人が、無理解な発言や行動をした人に大して集団攻撃して仕事をクビにさせたり、社会から排除しようとしている人もいる。そういうのを見ると「自分が想像できる”多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」という気分になってくる。

 

実際、多様性ってそんな手放しで喜べるほどいいもんじゃなくて、きちんと浸透させるにはかなりのコストが必要になるものとは私は思う。

多様性が本当に完全に浸透した世界を想像してみる。自身の周りそこら中に「想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほどんの嫌悪感を抱き距離をおきたいと感じるもの」がうじゃうじゃしていて、そいつらを気に入らないからって排除することはできない。

傷物語忍野メメが言ったような、誰の望みも完全には叶えられない、皆が不幸になる世界、みんなが少しずつ不幸を背負う世界。それが多様性が浸透した世界だろう。

 

そういう自分の気に入らない人間を包含する度胸も度量もないくせに、多様性とか言ってんじゃねえって問題意識自体は分かる。

 

ただ多様性って言うことで繋がりを持てる人間も多分いるだろうから(許されるマイノリティなら特に)、多様性自体を恨んでもしょうがないだろうって気分になる。

 

大也は分かってほしいなんて思ってないって言うけど、結局この後仲間と繋がろうとしているし、どうにかして生き延びるには繋がりが必要なのは他の登場人物にも共通している所だろう。

結局のところ必要としているものは多様性を礼賛している人間と同じ「繋がり」なんだから、繋がりを持とうと言ってくる人をそんなに嫌わんでもいいのになーとは思ったりした。

 

あと、この記事書くのに色々ネットサーフィンしてたら、こんな記事が出てきた。

x51.org

イギリスの自動車性愛の男性についての記事で、性癖に関するウェブサイトを運営して同好の士を見つけてきたらしい。

どこまで信ぴょう性あるかは疑問だが、事実としたらかなり理想的なあり方なんじゃないかと思ったりした。佳道達もこんな感じになれればよかったんだけどなー。

 

佳道たちは不運が重なり、ハッピーエンドを迎えることはできなかった。

 

あんまりメタなことは言いたくないんだけど、作者に文句言いたいこととして、何でこの結末にした?とは言いたくなった。

「佳道たちはその後性癖を分かち合えるコミュニティを作って、みんなで幸せに暮らしました。めでたしめでたし。」で終わらせることも可能だったはずだ。もう少しでそんな未来もあったはずだった。

なのに、わざわざ終盤であんな不運の大盤振る舞いして逮捕エンドなんかにしたことで、数日ブルーな気持ちで過ごすことになった。

なんだろう、こんな状況ですけど「いなくならないから」って言い合える絆はすごいよねとでも言いたかったのだろうか。そんなもん、普通に幸せそうにしているところで言わせなさいな。

 

こんなところかな。

 

 本当は大也に説教した八重子って「ヒトクイマジカル」のみいこさんを彷彿とさせた!とか、伊藤計劃のハーモニーとかと通じるものがあるんじゃないか!とか色々ぐるぐるしてたんだけど、あまりにまとまらなさ過ぎて諦めた。読んでいるうちに、色々な作品を彷彿とさせる作品だったことは確かだ。

クローンは永遠の命をもたらすか?

とある哲学カフェでの話。反出生主義について話している時だ。

どんな流れでそういった話になったのか明確に覚えてはいないが、ある人が「自分のクローンが欲しい」と言っていたことは覚えている。

曰く「自分が死んでも、クローンが生きていてくれれば永遠の命を感じられるから」と。

 

自然界(例えばベニクラゲ)で遺伝的に同一であることを永遠の命と表現しているのはテレビで見聞きしたことがあったが、人間の話でそういう表現をするのは初めて聞いたので印象的だった。同時に強く違和感を覚えていた。

 

こんな想像をしてみる。

未来の世界。一瞬にして自分のコピー人間が作れる機械が出来上がった。もはや「遺伝的に同一である」ばかりでなく「その瞬間の分子構造」「記憶」までもを同一にした個体を作り出せるような機械だ。それを使って自分のコピー人間を作った人がいた。

さて、ちょっとこのオリジナルの方の人間に毒を盛ってみよう。少し口にしただけで筆舌に尽くしがたい痛みを与えつつ時間をかけて殺すような毒だ。

毒を盛られて今まさに苦しみの中にいるオリジナルは、「コピー人間が生きていれば永遠の命があるから大丈夫」などと考えられるだろうか。おそらく難しいだろう。

そこで苦しみを感じている人はその人だけだ。遺伝的に同一であろうが、記憶が同じであろうが、今まさに苦しんでいるのは自分だけだ。この「苦しみ」を持たないコピーが「自分」であるから安心!などとどうして思えようか。

 

と、自分では考えたのだが、結局「いやいや、自分はその状態でもコピーがいれば安心できるよ」と正面切ってい言われてしまったら何とも言えなくなってしまうな。

 

とはいえ、やはりこの私の世界を見ているのはこの私だけだと思うし、たとえ遺伝子も分子構造も記憶も同じコピーができたとしても、それを不老不死とか永遠の命とは思えないだろうと予測する。実際どう思うかは分からないけどね。

マインクラフト日記

・マイクラ始めた

ルナさんに誘われてマイクラを始めた。
なんでもジャルさんがマルチプレイサーバーを作ってくれたらしい。

 

Minecraftについては、言わずと知れた箱庭ゲームの大御所みたいな印象を持っている。ゲームの配信とかで幾度となくみてきて面白そうだなーとは思っていた。人が面白そうにゲームやってるとついやってみたくなる。しかし箱庭系ゲームは例外なく数日で飽きてやめてしまってきた人間なので、気にはなりつつもこれまで手は出さずにきた。
とはいえせっかく誘ってもらったので、いっちょやってみるかと今回購入してみた。

 

ワールドに招待してもらっていざ降り立ったのは一面雪か氷の世界だった。配信とかでは緑が多いところから始めるのを多く見ていたので結構面食らった。
とりあえず周辺を散策するとフレンドが拠点にしている村を見つけた。まだ初期段階のはずだが、動物が繁殖してたり畑が出来てたりかなり進んでいる印象を受けた。
倉庫にもすでに色々物資が入っているのでそれをもらうのも手だったが、最初のうちは自力で色々試行錯誤してみたいタイプなので、拠点から少しだけ離れて色々試していた。

 

とりあえず…、木を倒してた気がする。で、道具を作って鉱石掘ってうんたらかんたらって感じかな。この辺はValheimで履修していた感じでいけるだろう。

イクラでやってみたかったことで、どれだけ地面を掘れるのか試してみたかったので、適当なところを直下掘りしてみた。ゾンビの声に怯えながら着々と掘り進める。結構掘ったところで、破壊不可能なブロックが出てきた。正直思ったほど下には行けなかったのが残念だった。

 

その後夜が来て、ゾンビに襲われかけたが、村にいるゴーレムに倒してもらい、腐った肉を手に入れた。このワールド、初期位置の周囲に肉を落とす動物が全然いなかったので、仕方なく腐った肉を貪り食って飢えを満たしていた。

さすがにこれでは周囲の探索もままならないので、食料だけ共有倉庫からもらって探索を始めた。

 

・洞窟怖い

探索する中で気づいたんだけど、洞窟がめちゃくちゃ怖い。
前は真っ暗で、どこからともなくウー…、ウー…ってうめき声聞こえてくる。一番怖かったのは(多分)エンダーマンと会ったとき。薄暗い空間に眼だけ浮かんでて、なんだコイツ…と思ってたらいきなりウワー!!と叫びだしてとんでもなく怖く、すぐに地上まで全速力で逃げた。逃げてる途中もおどろおどろしい声が響いてきてて、あれはマジでトラウマになった…。

また、鉱石掘るために地下に行く必要があるのだが、天然の洞窟はそこら中から敵が湧いてきて、いきなり後ろから爆発されたり、上から急にわらわらゾンビが降ってくるのを経験したら「もう無理…」となってしまった。拠点から離れれば、装備ロストの可能性も高くなるため、非常に神経を使って疲れてしまった。

ただ、後から分かったことだが、自然発生の洞窟に行かず、自分で掘り進める分にはスポーンを十分に管理できるためここまで疲れることがなかった。素材をとるだけなら洞窟に行ってはいけない。

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こういう洞窟はワクワクするが、入ったら最後だ

・地図作製

地下仕事が性に合わないと思ったので、地上を動き回って地図作製をやってみた。色々バイオーム見て、白紙の地図埋めてくのは結構楽しい。ただ、どうもマイクラの地図の埋め方がいまいち分かりにくかった。地図の縮尺を大きくすることができるが、小さくすることはできず、一回失敗すると白紙にしたりできないのが困ったな。また、一度埋めても縮尺拡大すると埋めたところがまっさらになるのもどうにもなじめなかった。

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地図が埋まっていくこと自体は楽しい

 

・エリトラとエンチャント

ある日、サーバー主のジャルさんよりエリトラをもらった。空を飛ぶための装備で、本来ならかなり終盤にならないと手に入らない装備みたいだ。これがかなり楽しかった。単純に飛ぶのが気持ちいいし、一気に行動可能範囲が広がって楽しい。ただ、初期状態だとすぐに耐久が落ちてしまうので、エンチャントをやってみることにした。
こういう風に目標が定まってくると、モチベーションが高まってくる。エンチャントするための経験値の稼ぎをどうするかとか、素材の効率的な集め方はとか調べていくのは結構楽しい。

そんなこんなで当面の目標はエリトラに耐久力と修繕のエンチャントつけることかな。

 

 

・マイクラの難易度高くね?

やってて思ったのがこれ。そこそこ装備を整えても(鉄装備とか)、クリーパーの爆発を至近距離で受ければ即死する。死んだらアイテムを落としてリスポーンするが、5分以内に再取得しなければロストする。

死んだらアイテムや経験値を落としてリスポーンという仕様はよくあるとは思うが、マイクラの場合、装備もアイテムも経験値も根こそぎ落として、完全に初期状態に戻り、さらにロストまで5分という時間制限もあるというのは最近のゲーム感覚だと鬼畜レベルに思える。ゲーム性が全然違うから比較は意味ないけど、ハード路線でおなじみのダークソウルだって2回目に死ぬまでは再取得可能だし、拠点間のワープだってある。個人的にはこれまでやってきたゲームで最も鬼畜だと感じた。

これまで何度となく遠くに行っては死んで全ロスしてきたし、そのたびに貯めた資材が消えていくのは精神に悪い。

 

そういえばエンダードラゴン戦にも連れて行ってもらったけど、最初に全ロスしてからはロストするのが嫌だったので、ブロック以外何も持たずに拳でゾンビアタックしていた。拳だけでも結構ダメージ与えられて意外だった。

 

私の場合、「貯めたものがどんどん消えていく」というのが非常に苦手なんだなーとここ数日で再確認した。これが箱庭ゲーが苦手な所以かもしれん。
できるだけ「貯めたものを使って、よりいいものを揃える」というサイクルにしていければもう少し苦手意識が無くなるかもなーとか思ったりした。

 

とはいえ、今のところは他の人にメチャクチャ環境を整えてもらっているのもあり結構楽しめている。正直一人だったら早々に辞めてたと思うが、当面の目標も見つかったし、しばらく続けられそうだ。

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拠点の様子

ハチ模様の建物とか、羊の色ごとに建物分けてるとかセンスがすごい。

 

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雪景色

 

読書感想文「密やかな結晶」

小川洋子著 「密やかな結晶」を読んだ。

偶然この記事を目にしたことがきっかけだった。

www.sankei.com

 

小川さんの小説は、『博士の愛した数式』を中学生くらいの時に読んだような記憶があった。1~nまでの合計を求める計算式の考え方が目から鱗だった覚えがある。

記事の中の、人間や社会には理屈ではさばききれない闇があり、それをすくい上げるのが文学という言葉が妙に心に残り、ちょうど記事の中に密やかな結晶の紹介が載っていたので、読んでみようと思ったのだった。

実は最新作かと思って買ったのだが、実は1994年に刊行された小説の新装版で、博士の愛した数式の刊行より10年近く前の小説だったことに気づいたのは読んだ後だったりする。

以下一部ネタバレあり。

 

 

全体的な感想としては、よく分からなかった…というのが正直なところ。

 

何が分からなかったかって、まず記憶消去のメカニズムが分からなかった。

作中では記憶の消去について具体的なメカニズムは説明されない。本作にとって記憶消去のメカニズムや意図は作者の表現上あまり重要ではないのだろうとは思うのだが、無粋ながらどうにも気になって夜しか眠れない。

 

記憶の消滅は意図的なものか自然現象なのか。

私は自然現象なんじゃないかなーと思った。統治のために鳥やら薔薇やらの記憶を消す意味が分からないし、最後は人体全ての記憶を消し去ってまでいる。これが意図的なものであるなら何がしたかったのか分からない。それよりは、何らかの自然現象で記憶が消去され、それを統治に利用していると考えるほうがまだ納得がいく。

記憶の消去は自然現象だけど、統治に邪魔になりそうな記憶の消えない人を取り締まるために、秘密警察が記憶狩りを行っているのかなと考えた。

 

消滅の効果

まず消滅と言っても、物それ自体が跡形もなく物理的に消えるわけではない。消滅が起きた時に主に消えるのは島民の記憶になる。単にそれが何かという意味記憶だけでなく、それに関連するエピソード記憶も消えるようだ。しかし全ての記憶が一瞬で消えるわけでもなさそうだ。記憶が消滅した後、人々は消滅したものを自分から廃棄しようとする。香水が消滅したときは持っていた香水を川に捨て、鳥が消滅したときは飼っていた鳥を手放した。もし、関連する記憶全てが一掃されるなら、そもそもどう扱っていいのかさえ分からないはずだ。
廃棄する理由については主人公が作中で、消滅によってできた心の空洞が、燃やすことに関して自分を突き上げてくると述懐している(この時は写真が消滅していたため、みんな写真を燃やしていた)。ここから消滅したものについても、少なくとも「廃棄すべきもの」という認識は消えないことが分かる。そして消滅したものをあらかた廃棄して、心のざわつきが収まったころにはそれがあったということを思い出すこともできなくなる。

 

これって例えば「ねじ」が消滅したりした場合はどうなったんだろう。ほとんどの工業製品にはねじが使われていると思う。ねじが消滅したらねじが使われている製品を全部分解するのだろうか。そしてねじを使わない新しい技術を生み出したりするのか?

あと「サケ・マス」って同じ魚だけど、サケだけ消えるとどうなるんだろう?とか、「ハマチ・ブリ」だとどうなるんだろう?とか。多分「魚」って括りで消されそうだな。

 

また、あらゆるものが島から消滅していき、最後に残ったのが声というのもよく分からなかった。「最後」と言っているので、声に先んじて人体全てが消滅したと思われる。そうなると肺や気管や声帯も消滅しているはずなので、その使い方が分からなくなっているはず。どうしてその状態で声が出せるのだろうと思った。

 

こういった消滅のメカニズムやこういう場合は?という疑問が結構あって、いちいち気になってしまった。

 

密やかな結晶について

題名の「密やかな結晶」が何かについては、解説の中で小川さん自身の回答として以下のように説明されている。

”人間があらゆるものを奪われたとしても、大事な手のひらに握りしめた、他の誰にも見せる必要のない、ひとかけらの結晶があって、それは何者にも奪えない。(中略)心の中にある非常に密やかな洞窟のような場所に、みんながそれぞれ大事な結晶を持っているというイメージですね”

 

小説を、言葉を、心を奪われ、記憶さえ残らないとしても、なおもまだ残るものがあるのだろうか。分からない。
いや違うか。
小説や言葉や心や記憶までも消し去って、なお残るものについて密やかな結晶と名付けたということか。でもそれはどのような物なんだ。やっぱり分からない。

 

うーん。「分からない」という感覚がかなり頻繁に出てきてしまい、世界観を味わうまでいかなかったような気持ち。あまり感想みたいなことが書けなかった。あんまり舌触りがよくなかったかも。

 

ブログはボトルメールみたいなものだから

私がブログを書く理由について記録してみたいと思う。

理由って言っても一言で言えば楽しいからなんだけど。

 

・ブログを始めたきっかけ

直接のきっかけは、ある同人誌でブログを勧めていたからやってみたというものだった。

影響を受けた同人誌はkonelというサークルのkonel.mag ISSUE05

konel-works.com

 

その中でクリエイターがブログを書くことが勧められていた。私自身は何かのクリエイターというわけではなかったが、以下の文章が心に残った。

 

今ブログについて考えていられるのは、数年前に出会ったある人のブログを読んだからだ。彼は、まさに自分の内面と向き合い、文章にしていた。こんな世界もあるのかと衝撃を受けた。心の内を覗いてしまったようで、柄にもなくドキドキとしたのを覚えている。(p.25)

 

 この「自分の内面と向き合い、文章にしていた」というのが、自分もやってみたら面白そうと特に思って始めてみたのだった。それ以外に友人のブログが面白かったっているのもあったしね。

 

 ・ブログである理由

 さて、単に文章や記録を残すのであれば、オフラインの日記やそれこそ「チラシの裏」にでも書けばいいはずだ。それこそ上記の自分の内面と向き合い、文章にするのだって日記帳でいいだろう。なぜブログなんだろう?

 まあ、端的に言ってしまえば反応が欲しいからということになる。

 こう書いてしまうとなんだかかまってちゃんみたいに見えてしまうから、あんまり反応が欲しいとは言いたくはないんだけど、ネットに上げる以上この欲求について無視はできない。

 

ただ、反応が欲しいつっても政治やらポリコレやら油がぐつぐつしているような話題のところに、水をぶっかけるような話を書いて反応を得たいわけじゃない。

もっと緩やかでぽつぽつした反応でいい。すなわちボトルメールに返信が来るような感じだ。

 

・記事の分類

私が書く記事は大きく3つに分けられる。誰かと共有したいこと自分のためだけに書いてることボトルメールの3つだ。

 

誰かと共有したいことは、ゲーム友達とか遊んだ人とかとの記録を付けるもの。私視点はこんな感じだったよーみたいな、友人に見られることを前提にした記事になる。最近あんまり書けていない。

 

自分のためだけに書いてることは、自分が考えたことや書き残しておきたいことを書いておくもの。今の自分だけが分かればいいので、他人から見て意味不明でも構わない。書いてもツイッターに上げないし、ブログに出ない下書きだけで終わることも多い。

 

ボトルメールは上2つの中間くらいな感じ。特定の誰かに見られることを前提にはしないが、誰かが見て反応してくれたらいいなというもの。自分の考えや感じたことを入れてはいるけど、会ったことのない人にもある程度前提が分かるように書く。そういった文章を電子の海に投げ込むイメージでいる。電子の大海からもしかしたら誰か拾いだして反応してくれるかもと少しだけ期待してブログに出す。

 

どの記事がどれというわけではなく、スペクトルのように分布してはいるものの大体こんな感じ。

 

私がもっぱらブログに書くのはボトルメールの文章だ。

誰かに共感してほしい気がするけど、誰に宛てるものでもない。自分一人だけで完結するものだけど、誰かに見てほしい。もしかしたらまだ見ぬ誰かの役に立つかもしれない。そういうものをブログというボトルに詰めてネットの大海へ投げ入れる。そしてたまに誰かから反応があるとうれしい。
意識しているのは徹頭徹尾自分だけのことを書くことだ。自分が感じたこと、自分が思ったこと、自分が得たもの、自分が見ている世界。それを書いてボトルメールにするから反応もらった時にうれしい。

(まあ、実際にはこれ書いたら不快に思う人いるかもなーと思って出せてないものもあったりするんだけど…。そこはネットなのでね…。)

誰かに届けばいいなーってほんの少しだけ期待して出した文章に反応がもらえると、ああ、誰かに確かに届いたんだなってうれしくなるよ。すごいうれしい。

なお、誰かに喜ばれることを明確に意識した「役に立つ」文章を書いて、その誰かに反応してもらっても、自分のボトルメール文章的にはあまり意味がない。そういうのに需要があることは当然だし、自分もそういう役に立つ記事に助けられているところもあるけど、今更自分がやってもしょうがないだろうし、楽しくない。そういうのは仕事でやっていればよい。

 

・自分のブログ読むの楽しい

あと、ある程度文章が溜まってきて、たまに過去の文章読むのがめちゃくちゃ楽しい。これは実感を持って言える。人によると思うけど、この楽しさのためにブログ書いてるところもある。いや、本当に楽しいんだよ!。

それから、たまに他のブログの文体とかを真似て記事を作ってみるのも面白い。最近はあまりやってないけど、初期の記事とか見返すと他のブログ記事を真似て作ったのが分かって面白い。また人の真似した記事を作ってみたいな。


こんなところかな。

 

今後も人の役に立つとかそういうことを考えない、自分だけの記事をボトルメールに詰めて書いてみたいと思う。