朝井リョウ/著 『正欲』の中に、「命の循環」という表現が出てくる。
主に生まれた地域内で結婚をして、子供を生んで、地域を中心にした人間関係を築くことを表現しているんだと思う。
そして、作中の登場人物たちは明に暗に「命の循環」を肯定しており、「正しい命の循環の中を生きている人」の中に入りたいと感じている。
私が最初に読んだときは、そういった命の循環への肯定に対して、あまりに古い価値観を内面化しすぎてないか?と思っていた。
命の循環はいいとしても、わざわざそれを自分から「正しい」ものと考えて、そこから外れた自分を正しくない存在として思い悩むのは卑屈なように感じていた。
しかし、そういえば自分も、この命の循環が良いものと感じることがあったなーとふと思い出したことがあった。
以前、国勢調査の関係で町内会長さんの家を訪ねたことがあった。
その際は、町内会長さんとその奥さん、娘さんと他にも親族の人がいて、みんなで国勢調査の説明を聞いていた。
この一家以外は説明に行っても、大体世帯主の人だけで対応されていたので、町内会長さんの一家は印象的だった。
家族がみんなで話しながら説明を聞いている時、自分は何というか「ああ、家族だなあ」みたいなことを感じていた。
例えるなら、サマーウォーズに出てきたヒロインの親族みたいな感じ。規模的にはサマーウォーズより全然小さいが、空気感は似通っていた。
この時感じた「ああ、家族だなあ」という感覚が、正欲にあった「正しい命の循環の中を生きている人」という表現にリンクしているような気が今にすると思える。
町内会長の家族を思い出して、命が循環していることを良いものとして捉える感覚が私の中にもあったんだなーと今更ながらに気づいたのだった。
もちろん、家族的なものがなくたって別にいいだろという意見は当然ある。
別に家族的なものが無くたって悪いわけじゃないし、子供のいない夫婦だっているだろうし、そもそも結婚しない人だっているだろう。
結婚してようがなかろうが、子供がいようがいなかろうが、友人がいようがいなかろうが、本質的には等価であって、良いも悪いもない。
ただ、現時点での私には命の循環が良いもの・正しいものという感覚が根付いているのだろう。
地縁がまだ残っていた田舎の生まれがそう感じさせるのか、あるいは遺伝子が自己複製のためにそう思わせるのか、理由は定かではないけれどね。
『正欲』の夏月は命の循環の中を生きている人を「正しい」と感じて、自分がその循環の中に生きられないことを嘆いて、周囲の「正しい世界」を嫌悪していた。
私は今のところ嫌悪するところまではなってないけれど、もしかしたらいずれ夏月のようになるのかもしれんなーとか思ったり。
ただ、やはり周りを嫌悪して生きるのはあまり好きではないから、気を付けつつ生きてくしかないかな。
何かを良いとか正しいと感じたり、自分を悪いとか間違っていると感じるのは、もうしょうがない。どうしようもない。
自分でどうこうできるものではないから、良いものはそれとして受け取っておくけど、これに執着して苦しみにならないようにはしたいね。