以前、こんな話を書いた。
オタクの心にある架空の夏―幻影の夏―に行きたいけど、どうすればいいのか分からねええええ!!という話をしていたのだが、なんとなーく「これかも…」と思えるようなことがあったので書いてみる。
さて、今回例のごとくどこかへ行きたい衝動に駆られ、あいち健康の森公園にやってきた。
フラフラドライブしていて偶然見つけた公園だったけど、駐車場無料で広いし、公園自体も広くて設備も整ってるし、いい公園だった。
さて、この公園の中に体育館があった。
散策しながら近くを通りかかったところ、どうやら中学生だか高校生くらいの子たちがバスケットボールを使った何らかのゲームをしているようで、ドリブルの音と時折歓声が聞こえてくる。
ふと心に何か感じるところがあって、足を止めてその光景を眺めてみる。
体育館の電気が中の熱気に呼応するようにきらびやかに灯っている。
対して体育館の周囲は、日は沈みかけ夕闇が迫り、虫の音が涼しげに響いている。少し肌寒くも感じる秋の気配が体育館とは対照的だ。
彼らはこのゲームが終わったら家路につくのだろうか。
多分一緒にゲームしていた友人たちと世間話や次の予定を話しながら、体育館の明かりを消し、夕闇の中を家に帰っていくのだろう。
そう思っていると、不意に物悲しい気分になった。
自分にとって、それは永遠に失われた光景のように感じるのだ。
それと同時に、これこそが自分の求めていた「幻影の夏」(季節的にはもう秋だが)のようにも思えた。
この感じ。物悲しく、胸が締め付けられるような、そんな記憶はないはずなのに郷愁を誘われるような感覚はまさにオタクの心にある架空の夏を感じた時と同じ感覚だった。
ふと気づく。
幻影は現実にないから行くことはできないって思ってたけど、幻影は現実と自分の認識が組み合わさって、そこに浮かび上がってくるものなのかもしれない。
秋風や虫の音、夕暮れという時間、中の明るさと外の暗さのコントラスト。
そういった現実のあれこれは幻影そのものではないけれど、現実の色々なものが編み合わさった布に私が触れることで、ここに幻影が出てくるようなイメージ。
幻影はどこかにあるものではなく、そこにあるものに自分が触れることで浮かび上がってくるものなのかもしれない。
だから、幻影を探しにどこかへ行くというアプローチよりも、身近にあるものから幻影を浮かび上がらせられるように、自分の感覚を研ぎ澄ますことの方が重要なのかもしれん。
幻影の正体が分かったことで、今までよりは身近な場所から幻影を見ることができそうな気がする。
それこそ自分の部屋の中から通勤の行き帰りの時でも、ハッとするような青空からふさぎ込みたくなるような雨空でも、そこにある幻影を積極的に捉えていければよいな。