沼メモ

FF14(槍鯖)、その他ゲームやらなんやらの話題を書きたい。

読書感想文「タタール人の砂漠」

ヤバイ本と出合っちまった…。

 

今回の読書感想文はブッツァーティ著「タタール人の砂漠」

 

 

お世話になっているエオルゼア読書倶楽部で読んでる人がいて、うちの図書館にもあったので試しに読んでみた。

その結果、危うく致命傷を受けるところだった。

 

一言で紹介すると、自覚なく無為に人生を浪費することの恐ろしさが描かれている本だ。

 

私も30手前になり、周りは次々結婚している。この年代には付き物なのかもしれないが、仕事でもプライベートでも「このままでいいのだろうか?」という漠然とした不安が無いわけじゃない。

かといって、将来を見据えて積極的に何かしているわけでもない。何となく不安を感じながらも、惰性で仕事しているだけの人間だ。

そんな状況に主人公のあり様が重なったように思った。

 

主人公の青年将校ドゴールは、初の勤務で山と砂しかないような僻地の砦 バスティアーニ砦へ飛ばされた。

当初はすぐにでも帰りたいと感じていたドゴールだが、なんだかんだ4ヵ月は勤務することになる。

4ヵ月で帰ると意気込んでいた主人公だが、慣れた勤務地を離れにくくなり惰性で勤務を続けてしまう。砦ではあまりに何もない日常を埋めるため、北の砂漠からタタール人が攻めてくるという噂が流れていた。

そのうちにドゴールもその噂を信じることで、自分の無為に過ぎる時間を埋め合わせるようになっていくのであったというのがあらすじ。

 

この本のやばいところは、時間があっという間に人生を飲み込んで過ぎ去っていく描写のえぐさにある。

個人的に最もえぐさを感じたのは2割くらいのところだ。

そこでは、時間が人生を飲み込み、どんどん過ぎ去っていく様が綴られている。これが何とも真に迫っており、初めて読んだときは息を呑んでしまった。

 

若者の時期には、歳月は軽やかで、ゆっくりとした足取りで過ぎていく。家々の戸口から笑顔で見送られながら、ゆっくりと歩いていけばいいと思っている。まだまだ先は長いのだからと。

しかし、あるところまで来ると、後ろの方で門が閉まっていっていることに気づく。そのうちどんどん鉄格子が閉まりはじめ、自分の背後まで迫ってくる。急き立てられるように歩くが、一緒に歩いてきた人もいなくなる。最後には灰色の海を前にして一人ぼっちだ。良いことは全て過去にあり、戻ることはできない。

 

この部分の表現がタタール人の砂漠の核になっているように思う。
この後の物語はどのようにしてドゴールがこの救いのない旅路を歩むかを綴ったものだ。

 

ドゴール達は価値ある何かを成したいと思っていた。今風に言うなら「何者かになりたかった」と言ってもいいだろう。しかし、流刑地のような砦ではそんなことはほとんど起こらない。

毎日監視、監視、監視、ひたすら監視。誰が通るわけでもない谷間を、敵が攻めてくることもない国境を毎日毎日同じように見続ける。

その中で「いつかタタール人が攻めてくる。我々はそれを守り通す役目があるのだ!」という噂は、兵士たちの希望や慰みになっていた。

惰性に埋没した日常の中で、そんな噂に縋っていかざるを得ないあり様を見ると、何とも哀愁を誘う。

 

4年目の終わりに、彼が街に一時帰郷したときの話も悲劇的だ。

休暇をもらって帰郷したドゴールだったが、級友はそれぞれ別の道を進んでおり、昔のような関係で話をすることができない。

恋人に対しても時間が作り出した埋めようのない隔絶を感じてしまい、恋人から暗に結婚を誘われても気づかないふりをする。

自分がいなくとも街は何も変わらないことを目の当たりにして、結局砦を恋しく思ってしまう。

長い砦の生活の中で、帰りたかった故郷も無くしてしまい、帰る場所が砦になっているのは何とも切ない。

かくしてドゴールはその一生をあっという間に浪費していくのだった。

 

単なる好奇心で読み始めた一冊だったが、自分の今の感覚と重なるところが多く、大ダメージを受けてしまった。

 

20代後半~40代で将来に漠然とした不安を抱きながらも、具体的なことは何もしていない人とかにはぶっ刺さる内容だと思うので、ぜひ一度読んでみてほしい。

 

また蛇足ではあるが、読み終わった後、私はこの作品のカウンターになりうる本を思い浮かべた。

飲茶著「体験の哲学」だ。

 

 

 

ドゴールは「体験の哲学」でいうところの哲学的ゾンビのような状態だろう。哲学的ゾンビとは日常の感覚に慣れて、「身体は習慣通り日常生活を営んでいるが、内面的には何も感じていない人間」のこと。

ドゴールはあまりに代わり映えしない砦の生活に慣れ過ぎてしまった。慣れてしまった感覚はほとんど感じることができない。

私たちが普段呼吸する時の肺の動きを感じないように、歩く時の足の裏の触覚を感じないように、ドゴールは自分の生活における大部分を感じられなくなっていた。

彼は起きながら熟睡していたようなものだ。だから一瞬にして時間が過ぎ去ってしまった。

 

だとすれば、その処方箋は「普段見過ごされている日常的な体験に目を向け、その体験を意識して味わって生きよ」ということになる。

呼吸や風を受ける感覚や足裏の感覚を意識して生活して、漫然と過ごさずにいられればドゴールのような悲劇は減らせるのかもしれない。